2018年1月9日(火)

「開校の地」謎解明 本年度閉校の阿見・吉原小

「幻の廃寺」跡 南東300メートル、卒業生ら調査

航空写真を見ながら話し合う卒業生ら=阿見町吉原
航空写真を見ながら話し合う卒業生ら=阿見町吉原

本年度末で閉校する阿見町立吉原小(池田直哉校長)で、長年の謎だった開校の地が分かった。同校は1875(明治8)年に廃寺跡で始まったとされるが、明確な場所が不明で、卒業生や県竜ケ崎工事事務所らが言い伝えや古文献などを基に「幻の廃寺」の位置を調査。現在の吉原小から南東へ約300メートル離れた墓地に、最初の校舎があったことを突き止めた。

阿見町史によると、吉原小は廃寺となった「医王寺(いおうじ)」の跡地に開校したが、児童数の増加で十分な敷地が確保できず、4年後の79(明治12)年に現在地へ移転したという。

医王寺跡の位置は、同校の100周年記念誌に航空写真で示されていたが、複数の住民から「ここに寺はなかったはずだ」と学校に指摘が寄せられていた。

同校のある吉原地区で土地区画整理事業を行い、地域の歴史を広報紙で紹介してきた同事務所は、閉校前に開校の謎を解き明かしたいと考え、卒業生や池田校長に相談、調査を始めた。11月には同校に60〜90歳代の卒業生を集めたワークショップも開いてルーツを明らかにする作業に取り掛かった。

同事務所が当初、開校の地の候補と考えたのは、住民が医王寺の読みに近い、通称「りょうじ」と呼んでいる土地。74(明治7)年の火災で焼失し、別の場所に移転した「西光寺」の跡地で、医王寺が西光寺の敷地内や近隣に存在した可能性を探った。だが、西光寺が現在まで保管している医王寺の本尊(薬師如来坐像)には焼けた痕跡がなく、この説にも疑問が残った。

特定につながったのは、ワークショップでの70歳代女性の証言。「本当は医王寺は『りょうじ』の道を挟んだ反対側にあった。ころを引いて(曳家(ひきや)で)移動してきた」。女性が地元の古老から最近聞いたという。今年、新たに発見された78(明治11)年の地引簿(土地登記簿の前身)も役に立った。西光寺跡の道路を挟んだ向かいの土地は、「官有地廃寺上知(廃寺故官に没収)」と記されていた。

過去の伝承や地図、地形なども照らし合わせて総合すると、「りょうじ」は医王寺の転訛(てんか)で、医王寺は西光寺跡の向かいにあったとの結論が導き出された。

焼失した西光寺跡にはその後、地域住民の集会所が建てられ、医王寺にあった本尊も安置されていた。同事務所は「長年、集会所に本尊が置かれていたことから、西光寺跡が『りょうじ』と呼ばれるようになったのではないか」と推測する。

「幻の廃寺」だった医王寺の謎が解明され、ワークショップに参加した卒業生の青山正一さん(69)は「こういう歴史がある吉原小がなくなってしまうのは惜しい」と残念がる。

池田校長は「何とか医王寺跡を知りたいという思いがあった。素晴らしい証明になった」と喜び、「地域の歴史を知ることは、これからの子どもたちが地域の未来を創造するエネルギーになる」と閉校後の地域にも思いを寄せていた。 (鈴木里未)

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