茨城・笠間焼の先達 後世に 昭和初期の塙彰堂 波山の弟子「顕彰を」

板谷波山の技法にならい、陶彫を行う塙彰堂(塙章一さん提供)
板谷波山の技法にならい、陶彫を行う塙彰堂(塙章一さん提供)
塙彰堂「鉄釉椿彫文壺」と井上壽博さん=昨年12月、笠間市内
塙彰堂「鉄釉椿彫文壺」と井上壽博さん=昨年12月、笠間市内
昭和初期、まだ生活雑器だった笠間焼を芸術に高めようと挑み、49歳の若さでこの世を去った陶芸家がいる。名は塙彰堂(しょうどう)。現在の茨城県筑西市出身で近代陶芸の巨匠、板谷波山に師事し、美術公募展で入選するなど将来を期待されながら、志半ばで病に倒れた。笠間焼誕生から250年、埋もれた先達の功績を後世に伝えようと顕彰を求める声が出ている。

■個人作家の開拓者
彰堂は笠間焼振興の夢を託されていた。県陶芸美術館の金子賢治館長(73)は「(笠間焼の)近代的な作家活動の出だしを飾った」と指摘し、「この後、昭和30年代半ばに松井康成氏や伊藤東彦(もとひこ)氏らが活躍し、戦後の笠間の陶芸が確立していく」と解説する。

「残念ながら早く亡くなったが、生きていれば確かな足跡を残したはず。実績をきちんと洗い直し、作品を常設展示していきたい」と意欲を示す。

折しも同館では、波山生誕150年を記念し、代表作をそろえた展覧会が2月26日まで開かれている。

波山研究の第一人者で、同展を監修した学習院大の荒川正明教授(61)は「波山が笠間と関わりがあったことは知っていたが、弟子がいたことは興味深い。陶彫など波山の技法を採り入れた作品を広く伝えるべき」と提言する。

■新文展や日展入選
彰堂は本名・好(よしみ)。1897(明治30)年、旧大原村(現笠間市)で生まれた。西茨城郡立の工業講習所に入所し、焼き物の技術を習得。千葉県印旛郡の窯業所に就職し、つぼやかめを制作した。

1923年に独立して同講習所跡に窯を築き、陶芸家を志す。板谷波山に出会って門下生となり、師にならい好山の陶号を用いた。

26年ごろから彰堂の号を使い、31年に波山が組織した東陶会に入会。その後、茨城工芸展で県賞を受け、35年の日本美術協会展では銅賞に輝くなど、「波山に次ぐ陶芸家の誕生」と注目を集めた。

快挙に地元は沸き、笠間稲荷神社宮司の塙嘉一郎氏ら有志が、国立陶磁試験所(京都)への入所を支援。43年の第6回新文展で初入選し、戦後、46年の第1回日展でも入選した。

現在のつくば市に疎開していた波山の助言を得て新しい窯を築くが、創作が本格化する矢先、47年に病で急逝する。49歳だった。

■高度なろくろ技術
現在、笠間市の彰堂の家を継ぐのは、孫で歯科医の塙章一さん(68)。「父教一は55歳で亡くなり、祖父のことを深く聞く機会はほとんどなかった」と振り返る。章一さんは、彰堂に関する文献や新聞記事などを収集し続けている。

この中に、彰堂と波山の関係性を示す36年4月26日付本紙「いはらき」があった。記事では第4回茨城工芸会展に向けて彰堂の作陶を紹介。記者が取材する前日に波山が視察したことが書かれ、写真には「波山の同志」と言われたろくろ師、現田市松氏の姿もある。

波山門下の井上良斎に師事した陶芸家の井上壽博さん(81)=水戸市=は昨年12月、章一さん宅を訪れ、記事を見た。「現田氏と一緒に写っており、とても貴重。ろくろを教わったことを裏付けている。何より、波山先生と密な間柄だった証し」と力を込める。

井上さんは、章一さんが所蔵する彰堂の「鉄釉椿彫文壺」(高さ37センチ)を手にし、「施された椿の彫刻に波山先生の息吹を感じる。大柄な割に軽く、ろくろの技も高いレベルにあった」と述べ、「笠間焼の先達として功績を顕彰すべき」と話した。

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