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【生誕150年・横山大観】東京駅長室飾る「富士」 終戦直後に寄贈 語り継がれる逸話

寄贈後からずっと駅長室を飾る横山大観「富士に雲」について話す小池邦彦東京駅長=6月28日、JR東京駅、菊地克仁撮影
寄贈後からずっと駅長室を飾る横山大観「富士に雲」について話す小池邦彦東京駅長=6月28日、JR東京駅、菊地克仁撮影
横山大観「富士に雲」を飾る東京駅の駅長室
横山大観「富士に雲」を飾る東京駅の駅長室


日本の鉄道網の中心、東京駅。その駅長室には日本画家、横山大観の大作がある。第2次世界大戦で爆撃を受けて修復した駅長室を飾るため、大観が寄贈した。画面中央に富士山の堂々とした佇(たたず)まいを捉えた「富士に雲」は、駅長の机の真ん前にある。駅舎の保存、復元工事が2012年に完了した今もなお、当時と変わらぬ場所に掛けられている。人々が盛んに行き交う駅から生まれた交流の物語をたどってみよう。

「駅長室を訪れるお客さまや見学に来た方は、大観の絵があることに驚いたり感激したりして帰る」と語るのは東京駅の小池邦彦現駅長。一般公開したことはほとんどない。大観が寄贈したときに、当時の第5代天野辰太郎駅長と共に写った写真などわずかな資料が残るが、当時の話は駅長が代々語り継いでいる程度という。小池駅長は「東京駅の歴史の中の一つ。この絵がわれわれを見守ってくれているようだ」と絵を見つめる。

1947年、終戦直後の東京駅。大観は東京・池之端の自宅を焼失し、熱海の別荘に身を寄せていた。上野で用事を済ませ戻ろうとしたところ、東海道線が遅延。人でごった返すホームで駅員が大観の姿を見つけて、駅長室へ案内した。

戦後、資材不足の中、急ピッチで造ったため、駅長室といえど室内は殺風景だった。大観は「今度絵を持ってくるので飾ってほしい」と言って帰宅した。日がたち、大観が持って現れたのが「富士に雲」だ。

天皇陛下がお休みになる貴賓室「松の間」が完成したらそこで飾りたいと幹部が伝えたところ、大観は「駅長室用に描いたものだから、別に描く」と答えた。翌年、彩色画の「富士に桜(霊峰富士)」が届いたという。

貴賓室の絵まで手掛けたことに驚き、幹部は国鉄と鉄道省(当時)に報告。後日、駅長室で会食が開かれた。1年後に不慮の死を遂げた下山定則(同省東京鉄道局長)、後の総理大臣、佐藤栄作(当時、同省次官)ら、そうそうたるメンバーが集まった。

画料は無償。鉄道省側がお礼に訪ねても、大観は決して金銭を受け取らなかった。重ねて申し入れて、ウイスキーと制作に使う金粉だけを受け取ったという。会食の席で戦後でなかなか手に入らないと大観が言っていたのを聞いての計らいだった。

横山大観記念館の佐藤志乃学芸員によると、落ち着いた色合いの「富士に雲」は、「凛(りん)として力強い、昭和の富士図の一つのパターン」という。貴賓室の「富士に桜」と共に2点とも雲に囲まれた富士図で「富士は雲煙に包まれた姿が一番いい」と語った大観の言葉を挙げ「周囲を雲で覆うことで、孤高の存在である富士の気高さが強調されている」と話す。

また、同館の横山隆館長は、隆館長がたまたま駅長室を訪れて、絵を見たことを報告すると、大観は初めて寄贈のいきさつを話してくれたという。大観は日頃から、感銘を受けると作品を描いて贈っていたそうで、「人のために描く。(行いを)粋に感じ、人物にもほれ込んだんでしょう」と、大観の気持ちをおもんぱかった。(大貫璃未)

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