2019年8月15日(木)

《戦後74年》古河地方航空機乗員養成所 予備兵育成 空襲被害も 元生徒の遺族「実態知って」

父の峯好太郎さんや古河地方航空機乗員養成所について語る桧垣淑子さん、小倉佐智子さん、国府田優美子さん(左から)=古河市女沼
父の峯好太郎さんや古河地方航空機乗員養成所について語る桧垣淑子さん、小倉佐智子さん、国府田優美子さん(左から)=古河市女沼

太平洋戦争のさなか、古河市(当時の岡郷(おかごう)村)に設置された「古河地方航空機乗員養成所」。審査を通過した全国の若者が厳しい訓練を積んだことを知る人は地元でも少なくなった。同養成所は、民間機のパイロット育成を主としながら、陸軍の予備兵員を養成する目的を併せ持つ。米軍の襲撃も受けた同養成所の実態について、郷土史家や隊員遺族は「もっと知ってほしい」と話す。

同市上辺見の郷土史家、前田順一さん(83)は、1945年8月13日に同養成所が米軍機に攻撃される様子を目撃していた。

「南側から低空で数機が飛んできた。そのまま練習機に向かって波状攻撃し、黒煙が上がったのを覚えている」。戦後、閉所された同養成所には、襲撃を受けた練習機がそのまま残されていたという。

同養成所は、逓信(ていしん)省航空局の管轄。多くの工場や企業が立ち並ぶ現在の市丘里工業団地に、42年4月に開所した。敷地面積約115万平方メートル。地元で「岡郷の飛行場」などと呼ばれた。

敷地の大部分は平坦な芝生だった。離着陸のために固められたとみられ、古河歴史博物館の立石尚之館長は「その日ごとの風向きに向かって、芝生から飛行機を飛ばしていた」と、かつての証言を紹介する。

本館や生徒舎などがあり、格納庫近くに“滑走路”も整備されていた。その跡とみられ、小石が混ざったコンクリートが、今も小堤小学校西側の企業敷地内に残っている。

◆父の面影

「ここが正門。格納庫方面に向かって道がずっと先まで延びていた」。国道125号に接する企業の門前で、桧垣淑子さん(73)、小倉佐智子さん(67)姉妹が回想する。

「右手前と奥のサクラは当時からあった。左手前には守衛所。生徒舎の一部は戦後、岡郷中学校の校舎として使われていた」

桧垣さんと小倉さん、国府田優美子さん(62)の父、峯(旧姓高田)好太郎さん(享年87)は、開所後間もなく入った本科第2期生。卒業時に操縦士、航空士、滑空士の資格を取得したが、入隊が1年以上遅れたため、戦地に行かずに終戦を迎えた。

几帳面だったという峯さんの遺品の中に操縦日誌がある。「天候晴。風速5メートル。課目、慣熟飛行」。演習前の主任教官の注意事項として「我等ハ大君ノ御為ニコノ身命ヲ捧ゲ奉ル」などと、その日の訓練内容がつづられていた。

「父は『知力、体力に優れた先鋭たちが集められた』と話していた。養成所にいたことを誇りに思っていた」。3人は遺品を見詰めながら父の面影を追った。

◆赤とんぼ

同養成所の訓練機は、通称「赤とんぼ」と呼ばれた九五式一型練習機。当初は機体に郵便マークがあり、民間機乗員を育てる色合いがあった。だが陸軍飛行学校の分校が併設され、双発高等練習機が配備されるなど、徐々に軍事色が際立っていった。

峯さんの写真に「レイテにて散華」と記された先輩との1枚がある。峯さんは晩年、国府田さん家族と知覧特攻平和会館(鹿児島県南九州市)を訪問。先輩の名を見つけると「良かった」とつぶやいた。

戦争について多くを語らなかったが、家族に特攻隊を描いた小説を手渡すなどし、「戦争はそんなにきれいごとではない」「命があって初めて国が守れる」と話した。

「戦争の悲劇を二度と起こしてはならない。郷土にあった古河の飛行場を残し、伝えていかなければ」。娘3人の思いが父に重なる。(溝口正則)

1943年ごろに撮影された古河地方航空機乗員養成所。生徒たちの背景に練習機や施設などが写る
1943年ごろに撮影された古河地方航空機乗員養成所。生徒たちの背景に練習機や施設などが写る


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