小貝川堤防決壊40年 記憶の共有課題 記念誌作成至らず 茨城・龍ケ崎

1981年8月にあった小貝川の堤防決壊現場付近に立ち当時を振り返る植竹勇さん=12日、龍ケ崎市川原代町
1981年8月にあった小貝川の堤防決壊現場付近に立ち当時を振り返る植竹勇さん=12日、龍ケ崎市川原代町
小貝川の堤防決壊現場を捉えた写真(国土交通省利根川下流河川事務所提供)
小貝川の堤防決壊現場を捉えた写真(国土交通省利根川下流河川事務所提供)
1981年8月に茨城県龍ケ崎市であった小貝川の堤防決壊は24日で40年を迎える。市を襲った最後の大規模水害に位置付けられ、体験者は後世への継承を願う。一方で、過去に機運が高まった災害記念誌の編さんは実現に至っていない。記憶の共有をどう進めていくかが問われる。

■利根川が逆流
「暗黒の中一瞬にして泥海と化した」

当時の市災害対策本部の記録はこう書き残している。81年8月24日午前2時12分、同市川原代町で小貝川の左岸が決壊した。

旧国立防災科学技術センター(現防災科学技術研究所)が83年に公表した調査報告などに基づくと、81年8月に発生した台風15号が23日、千葉県に上陸し、関東、東北、北海道と列島を縦断した。利根川上流域に多量の雨が降った。

これに伴い、利根川の水位は上昇。茨城県南部で合流する小貝川に泥水を含んだ逆流が入り、堤防が壊れる一因になったとされる。

■残る知恵
被災者の記憶は鮮明だ。

決壊現場近くに住む元市職員で地元区長の植竹勇さん(65)=同市高須町=は「急いで準備したんだ。家財を2階に上げたり、風呂おけに水をためたり…。ある程度持つよう、梅干しを入れた塩むすびもたくさん作った」と振り返る。

植竹さんは、決壊を知らせる消防車両のアナウンスで目を覚ました。防災行政無線はなかった頃だ。在宅していた両親と3人で籠城することを決断した。

水が迫ってきたのは夜が明ける頃という。外の水は高さ1メートルに達し、自宅も床上10センチまで浸った。引いたのは3日ほど経過してからだった。

一帯はかねて、水害に見舞われた土地だ。植竹さんは子どもの頃、軒下に船をくくりつけている家を見たことがある。水から逃れるためだ。「冷静に行動できたのは、地域にこうした知恵や経験が残っていたからだろう。水害があったことは、やはりきちんと後世に残していかないといけない」と語る。

■再来に備える
記憶と記録をどう伝えて市全体で共有していくか。市役所や国土交通省利根川下流河川事務所(千葉県香取市)には内部資料が残っているといい、これらが活用できそうだ。

災害対策の参考用に内閣府がまとめた「復旧・復興ハンドブック」(今年3月更新)では、記憶を継承する取り組みとして、災害記録誌の作成を例示。教訓を残すとともに、データや資料を組織的に収集・整理する体制を構築する必要性を指摘している。

龍ケ崎市ではかつて「市史」とは別に、水害の記念誌編さんが試みられたことがある。当時を知る市関係者は「水害20年の節目に合わせ、作ろうという話があった。だが、防災面で行政の責任が問われることを懸念し、結局なくなった」と述べた。

こんな風潮も変わりつつある。中山一生市長は取材に、「東日本大震災や常総水害を経て、今は何か残すことが当たり前になっている。市民が手に取りやすい記念誌の編さんは検討に値する」と強調する。同河川事務所の田所百年裕副所長も「市などと歩調を合わせたい。記憶継承は再来に備えることにもつながるはずだ」と説明している。

★1981年8月24日の小貝川堤防決壊
被害は龍ケ崎市ほか、藤代町(現取手市)、利根町、新利根町(現稲敷市)、河内村(現河内町)に及んだ。死者はいなかった。龍ケ崎市での浸水は1880ヘクタールで、市域の4分の1ほどに相当。住宅被害は半壊や床上浸水を含め1250棟超。水田や畑は計1660ヘクタールが冠水するなどしたとされる。

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