代替わりで庭園大改造か 池埋め立て、茶室を建築 茨城・桜川の真壁城跡

2つの池底の存在を示す地層について説明する調査員=桜川市真壁町古城
2つの池底の存在を示す地層について説明する調査員=桜川市真壁町古城
茨城県桜川市教育委員会は11日、同市真壁町古城の国史跡・真壁城跡の本年度発掘調査の成果を発表した。三の丸に当たる「中城(なかじょう)」の庭園にあった池などについて、城主の代替わりに伴って大規模に造り替えられたことを確認。市教委は「当時の流行も取り入れながら庭園の大改造を行ったと分かった。今回出土した遺物や遺構は庭園の変遷をたどる上で重要な発見」としている。

市教委によると、真壁城は平安時代末期から安土桃山時代に桜川市南部付近を治めた真壁氏の居城として整備された。城跡は本丸、二の丸、中城、外曲輪(そとぐるわ)に分かれ、国史跡の面積は約12万5千平方メートル。1997年から遺跡保護や史跡整備を目的に調査を続けている。

今回は中城庭園約9千平方メートルのうち約600平方メートルを調査。「北池」(東西約27メートル、南北約17メートル)で出土した素焼きの皿「かわらけ」や、地層の変化などから少なくとも二つの池底を確認した。

この結果、第17代久幹(ひさもと)(1552~89年)が北池を造成後、久幹の子の第18代氏幹(うじもと)(1550~1622年)が北池の北側を埋め立て、近くの土塁を拡張していたことが判明した。池の深さは約70センチから約20センチに浅くなっていた。埋め立て地では茶室跡が確認されているという。

さらに北池に導水する別の池(調整池)でも、氏幹が池の下層を埋め立てて作り直していることを確認。北池につながる水路の底付近からは、かわらけ39枚が新たに出土し、水路を造成したのは氏幹だったことも分かった。

市教委は「(氏幹が)自分好みに池を造り変えた」との見方を示す。豊臣秀吉の朝鮮出兵で前線基地となった名護屋城(佐賀県)を訪れた際、当時の流行を取り込んだ庭園を目の当たりにした可能性が高いという。

市教委文化財課の川又隆一郎主任(35)は「そういうものを見て(中城庭園を)変えている可能性がある」と指摘した。

19日に成果を公開する現地説明会を開く。問い合わせは同課(電)0296(58)5111。

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