【エンタメ総合】
パール兄弟、デビュー40周年は“天から与えられた”原点回帰

2026年のデビュー40周年に向け活発な動きをみせるパール兄弟


 80年代ニューウエーブ系の伝説のバンド“パール兄弟”が、2026年のデビュー40周年に向けて活発化している。メンバーもすでに60台半ばを超え、当時の尖った楽曲に、円熟した演奏テクニックが加わり、新たな客層にも対応できる魅力をもった。長男でボーカルのサエキけんぞうは、作詞家として、今では総計1000曲近い作品を世に送り出す顔も持つ。今秋11月27日にクアトロライブで40周年に向けた活動の再スタートを切るパール兄弟の今を、歯科医アーティストの先駆けでもあるサエキけんぞうに聞いた。



【写真】インタビューに応じるサエキけんぞう



■好きなものはあきれるほど子どもの頃と変わっていない



――まずはサエキさん自身の音楽へのめざめをお聞きしたいのですが。

【サエキけんぞう】実は僕の音楽へのめざめはフォークル(ザ・フォーク・クルセダーズ)なんです。兄と姉と3人でお金を出し合ってアルバム『紀元貮千年』を買ったんですね。それが最初です。最近、加藤和彦さんの映画がらみで北山修さんと3回トークイベントに出たのですが、北山さんとトークしている姿を昔の自分に見せてあげたいと思いましたね(笑)。フォークルの曲で「悲しくてやりきれない」とか「帰ってきたヨッパライ」はよくかかるわけですよ。でも、「水虫の唄」とか「戦争は知らない」は本当のコアファンしか知らないから。そういうのを集まっている人達みんなで歌うというのが僕の夢でしたから、それを実現したんです。北山さんは「今日は怖すぎる」って言ってましたけどね(笑)。アイスで言ったら、棒をなめている感じですか、それが僕にとっては楽しいんですよ。



――フォークルとは意外でした。

【サエキけんぞう】面白いところとしんみり感が同居している音楽というのが、フォークルによって体の中にしみつきましたね。ハルメンズにしてもパール兄弟にしても、たぶんそれが通底している要素かもしれないですね。加藤和彦さんだと「オーブル街」とか「花のかおりに」とかね。僕の中核となっているハルメンズとかパール兄弟っていうのはまさにその世界なんですね。また、その当時からストーンズやビートルズのアルバムを買ってました。そのあとすぐレッド・ツェッペリンに行ったし…。



――小学生ですよね。

【サエキけんぞう】そうなんです。小学5年生頃から、お茶の水にあった日本進学教室っていう予備校に通っていて、そのすぐそばにディスク・ユニオンの1号店があったんです。そこに行けば自分の好きなロックがあったんで、ザ・フ―とか買ってましたね。僕は今66歳ですけど、自分で面白いと思うことはあきれるほど子どものころと変わっていないなと感じますね。当時は本屋で漫画を立ち読みするんですけど、漫画の横に並んでいる「ミュージックライフ」のいろんな順位を見るのが好きでね。覚えているのは、人気投票だとゴールデンカップスが1位でタイガースが2位なんですよ。あとキャッシュボックスの順位で『アビー・ロード』を最終的に『ツェッペリンII』が抜くんですよ。それを見て「『ツエッペリンII』が『アビー・ロード』を抜いたんだ!」って驚いている小学生がいるわけです(笑)。



――そういう根っからのロック少年がなぜ歯医者をめざしたんでしょう。

【サエキけんぞう】それは予備校に通いながらディスク・ユニオンに通っていたっていうのが示唆的で、当時は会社員になったら絶対音楽なんて聴けないと思っていて、時代的にもそんな時代でしたし、小さな歯科医院だったら音楽かけながら仕事ができるじゃないかと考えた訳ですよ。これは本当です(笑)。



――歯科医アーティストの先駆けになったわけですよね。

【サエキけんぞう】GRe4N BOYZ(元GReeeeN)の皆さんにはお会いしたことはないんですが、ひょっとすると僕の姿を見ていてくれたのかなと思うところがあって、それは歯科医とミュージシャンを並行してやっていくことの大変さを月刊角川で連載し、まとめた書籍『歯科医のロック』っていうのを1980年代に発売してるんですね。それを読んでくれているとしたら、同時並行で顔を出しながらやっていくのは軋轢が多すぎないかい?って気づくと思うんです。そうすると当然ミュージシャンとしての露出はやめた方がいいという結論に達すると思うので。そうだとしたら自分の苦労がむくわれた感じがしますね。



――まずは歯科医師をめざしながらバンド活動をやってきた。

【サエキけんぞう】ハルメンズがそうでしたね。ビクターが契約してくれたんですが、徳島の大学に行きながらのレコーディングは無理なんで1年休学しました。でもたった1年の休学でアルバム2枚出しましたからね。大学に戻ってからも窪田(春男)と一緒に曲作りだけは続けてました。それで学校は卒業し、日大松戸の歯学部に席をおきながらパール兄弟としてデビューしたんですね。歯科医は結局1992年にやめました。



■パール兄弟契約はロキシー好きの担当が決め手に



――パール兄弟がデビューした1986年頃はポップ・ロック的なバンドが多かった時代ですね。

【サエキけんぞう】ツイスト、サザンオールスターズ、ゴダイゴなどのバンドが歌謡曲に近づきながらヒットを生み出していた時代ですかね。そういう先輩方の姿を見ていて、ヒットを常に考え続けるのは大変だなと思う訳です。そこで自分たちのやり方としてメインに考えたのがライブですよね。ライブが自分たちの思う通りにできるかどうかというのが大事でしたね。面白くて楽しければいいやって考えてやっていたのがパール兄弟でした。



――デビューはポリドールでしたが、他からの誘いは?

【サエキけんぞう】水面下ではありました。ミディとかビクターとかいくつかありましたね。ポリドールに決めたのは話が通りやすかったからです。元葡萄畑のメンバーだった青木和義さんがディレクターとして担当してくれて、元々ロキシーミュージックを崇拝している人でして、そういうテイストの同じ先輩がいたというのが決め手でしたね。ポリドールは当時ロック系が沈滞している時で、我々はかなり期待されたんですよ。ハルメンズの時にも戸川純が売れたことが影響して84年に『デラックス』っていうベストアルバムがオリコン60位に入ってますし、86年のパール兄弟のデビューアルバム『未来はパール』も75位で。どっちもオリコンに入っているんですよ! 



――そのパール兄弟が2026年に40周年を迎えるということで、今年から盛り上げていこうって話のようですが。

【サエキけんぞう】もうみんな別々の活動をしていますから、簡単にはパール兄弟をできなかったんですが、2013年に結成30周年のタイミングで高円寺のライブハウスでライブができたんですよ。その流れで、2016年に角川さんがクラウドファンディングを仕掛けてくれて、「デビュー30周年ライブ盤を作ります」というのをやったら目標額を大幅に超えまして、2016年にクアトロでデビュー30周年のライブを開催したんです。で、その勢いで2018年に再度クアトロをやった時には『馬のように』というアルバムも発売できました。コロナでいったん中断してしまったんですが、ここからもう一度デビュー40周年に向かっていこうということです。



――40年間にたくさんの作品を生み出したわけですが、自分が作ってきたアルバムの中で印象深いのは?

【サエキけんぞう】パール兄弟だと、デビューアルバムの『未来はパール』ですかね。やはりバンドの場合はあまり作りこんでしまうよりざっくりとした方がいいと思うんですよね。作りこんだ作品としては『TOY VOX』という作品が中村とうようさんの100選にも入れてもらったんで、完成度が高いんですけど、それとは対極でバンドとしての躍動感が感じられます。繊細で粗削りな感じが魅力ですね。



■作詞家としては世の中の実相や突出した悩みを表現したい



――詞は全部サエキさんですか。

【サエキけんぞう】そうですね。僕が中心になっているバンドやソロ活動も僕が作詞をしていることがポイントになっていると思います。



――詞の世界観のバリエーションは豊富ですよね。

【サエキけんぞう】ありがたいことに作詞家としてもいろいろ書かせてもらってますから、それがよい方向に影響しているのかと。作詞家としてはビクターで小泉今日子さんのディレクターだった田村充義さんという方が伊藤つかささんの楽曲用に発注してくれたのが最初ですね。それは白井良明作曲、清水信之編曲という黄金トリオでやらせてもらった作品でした。そのあと、田村さんには小泉さんの作品にも抜擢してもらいました。非常に思い出深いし感謝もしていますね。アイドル詞としては、その後に工藤静香さんの初ソロ歌唱曲をお願いされたり、モーニング娘。のインディーズシングル曲を担当したり、ずいぶん作詞もしました。意外に思うかもしれませんが、もう作詞家として600曲近く書いてるんですよ。それに自分のための詞が300くらいありますしね。作詞家としては麻生圭子さんとか田口俊さんとか銀色夏生さんとかが一緒の世代なんですが

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