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デーブ・スペクター、小倉智昭さんお別れ会で愛とユーモアあふれる弔辞 らしく反省も「オチがなくて、すみませんでした」

小倉智昭さんのお別れ会に出席したデーブ・スペクター


 昨年12月に77歳で亡くなったフリーアナウンサー・小倉智昭さんのお別れ会が17日、東京・表参道のブルーノート東京で行われた。



【写真】「褒められたい気持ちで頑張れた」とくダネでの共演を語ったデーブ・スペクター



 弔辞は、親交のあった寺尾聰、小倉さんが22年にわたり総合司会を務めたフジテレビ系朝の情報番組『情報プレゼンター とくダネ!』で番組開始当初から共演したデーブ・スペクターが務めた。



 デーブは「かけがえのない小倉智昭さん。亡くなられて3ヶ月が経ちました。今ごろであれば大好きだった西武ライオンズを楽しみにしていたと思います。小倉さんとは『とくダネ!』で初回から最後まで22年間ご一緒していただきました。一言で言えばヨーダみたいな存在で少なくとも800歳分の知識と知恵がありました。きょうの小倉さんがニュースをどう切るか。ハラハラする番組名物のオープニングトーク。放送後は“炎上のメリークリスマス”。引き出しが多くて、歩く家具店と言ってもいい。Wikipediaの方が小倉さんを参考にしてもいいぐらい。コメントも進行もいつもホールインワン。よく朝が早くても取り上げるドラマやお芝居、コンサートに必ず行ってから感想を述べるプロ根性。いつもアーティストや作品をリスペクトしていました。毒舌に聞こえても、とても優しい人でした。アドバイスや注意された人も、みんな得になったはずです。小倉さんに少しでも喜ばれたい、褒められたい気持ちで頑張れた。さりげない激励の言葉が宝物でした」と在りし日を偲んだ。



 そして「お台場のテレビ局はスタッフルームからタレントクロークまでのエレベーター、長い廊下のおかげで22年間、小倉さんとたっぷりと個人的なお話ができてラッキーでした。ディズニーランドに誘われて一緒に行っても乗り物より小倉さんとしゃべっている方が楽しかった」とかけがえのない時間を思い返していた。



 「ありとあらゆる人生経験を持っていたからこそ、テレビでの発言に説得力が満ちていました」とする。そして「伝説化した小倉さん主催の忘年会や歓送迎会ではスタッフのモチベーションを上げるため、サプライズの大物アーティストなど思い出がいっぱいです。スタッフ思いで小倉さんの右に出る人はいません。小倉さんの打ち上げを超えることは、この先100年はない」と人柄を語った。「この番組が終わる時にありがちなあいさつがあります。番組が終わると『ぜひ同じメンバーで、また番組を作りたいと思います』と。これは建前で誰も信じない。でも小倉さんと、もう1度仕事したいと誰もが思っていたでしょう。天国で伝説の豪華な忘年会をしてください。周りをハッピーにしていただいて、ありがとうございました。お疲れ様でした」と結んだ。



 閉式後には取材にも応対。人生初の弔辞で練習に練習を重ねたというが「眼の前に小倉さんの写真があると泣きたくなっちゃって…」とぽつり。「天国で『なんでデーブに頼むんだよ』と言っていると思う(笑)」と笑わせる。最後に小倉さんに言葉を掛けるならと聞かれるとデーブは「オチがなくて、すみませんでした」と謝りつつ「素晴らしい方でした。これだけ充実した人生を送った方はなかなかいないと思う。みんな大好きだった」と思いの丈を語っていた。



 小倉さんは1947年5月25日生まれ、秋田県出身。獨協大学外国語学部卒業後、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)に入社し、その後、フリーアナウンサーに転向。99年4月に始まったフジテレビ朝の情報番組『情報プレゼンター とくダネ!』では22年にわたりMCを務め、フジテレビの朝の顔として親しまれた。2016年に膀胱がんを公表し、18年に膀胱全摘手術を受けた。21年10月には膀胱がんが肺に転移したことを公表していた。



 お別れ会が行われたブルーノート東京は、小倉さんが足繁くかよった思い出の場所。祭壇には、アコギ5本、エレキギター2本、エレキベース1本など小倉さんの愛用品が並べられ、大好きだった西武ライオンズのユニフォーム、西武時代の松坂大輔のユニフォームや、レアル・マドリードのユニフォームや、これまで取材に訪れたオリンピックの取材パス、聖火ランナーを務めた際のトーチなどか飾られていた。

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