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「泣いたら、黙るんだよ」長嶋茂雄さん現役引退伝えた“レジェンド”の金言 名場面を伝えてきた松本秀夫が熱く語る【ニッポン放送ショウアップナイター実況アナVol.3】

松本秀夫アナ (C)ORICON NewS inc.


 2026年に放送開始から60年を迎える“ラジオ野球中継の雄”『ニッポン放送ショウアップナイター』。「聴くプロ野球中継」を長年にわたってけん引してきた同番組の真髄に迫るため、ORICON NEWSでは今シーズン、実況アナウンサーへのリレーインタビューを敢行する。第3回は、数々の名試合を伝えてきた松本秀夫アナウンサー(63)。



【写真】数々の名シーンを伝えてきた松本秀夫アナ



■観光気分のはずが…まさかの公式戦実況デビュー トントン拍子での抜てきに反発も



――実況デビューは1987年7月、後楽園球場で行われたジュニアオールスターゲーム(現:フレッシュオールスターゲーム)中継でした。



その当時、毎年恒例でやっていたのですが、各局の若手やデビュー目前のアナウンサーが2イニングずつぐらい、お披露目実況みたいなことをやっていたんです。忘れもしない、1987年の7月24日だと思います。僕はスポーツに異動してきたのが7月1日だったので、本当に3週間後くらいにはすぐ実況を担当することになりました。



当時は促成栽培でしたね。指導役のアナウンサーの深澤弘さんが、ピッチャーの手からボールが離れた瞬間に「第1球投げました」ときちんと実況するのが基本中の基本だから、そこは絶対に間違えるなと教えてくださっていたんです。その深澤さんも中継でいらっしゃっていたので、そこは絶対間違えちゃいけないと、そこばかり考えながらやっていました。



――その2週間後には公式戦での実況デビューとなりました。



広島市民球場で行われた、広島東洋カープ対横浜大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)ですね。上司からは「(中継は回ってこないだろうから)観光旅行のつもりで行って来い」と送り出されたはずが、本番で中継していた巨人戦の試合が早く終わった関係で、6回か7回くらいから放送することになりまして。森中千香良さんが解説をしてくださっていたのですが、なにせ観光旅行で…と上司も言っていたくらいなので、放送席にいるのは、僕と森中さんだけ。だから、森中さんが普段ディレクターがやるようにスコアをつけながら、会社と連絡を取って中継を届けるという状況だったんです。



当時の広島市民球場の第1放送席は一塁側にあって、右に飛ぶと打球が見えないんですよ。だから、僕が「打った!ライト線に飛びました」と言って、その先が見えないところを、森中さんが立ち上がって見て、小声で「フェア」と教えてくれたり、本当に助けていただきました。その実況で、スイッチヒッターの選手を認識していなくて「森中さん、先ほど右で打っていた選手が、この打席は左に入りましたね」って言っちゃったんです(笑)。森中さんは放送には入らないように僕を叱りつつも、明るい声色で「スイッチヒッターですからね」と解説をしてくれました(笑)。



――その後、ずいぶん早いタイミングで日本シリーズの実況も担当されたそうですね。



僕の前にスポーツアナウンサーとしてニッポン放送に入ったのが小野浩慈さんという方で、6歳上だったんです。そういった状況で僕が入ってきたこともあり、当時の上司の英断で「よし、早い段階から松本を使って、新しい血を入れていこう」と押し出してくれたんです。だけど、先輩方からしたら(歓迎できる話ではないから)「松本にやらせるのは、オレたちの生活権の侵害だ!」と抵抗した方もいらっしゃったそうです。僕は良くも悪くも、鈍感力が強いので(笑)、そういったプレッシャーを当時あまり感じることもなく、後日談として「こういうことがあったんだぞ」と聞かされました。



その当時、野球中継をやるにあたってもアナウンサーに「序列」のようなものがはっきりとあって、これくらいになったら巨人戦を担当することができるといったものがあったんですよ。僕は、そういった階段を数段飛ばしでさせてもらったので、そういった周囲の抵抗もあったのだと思います。



――大きな舞台で経験を積んでいくうちに、松本さんの型ができあがっていったのでしょうか?



それは、本当に深澤弘さんのおかげです。最初の段階から「コイツは、オレが育てる」という意気込みで、マンツーマンで基礎を作ってくれたんです。ただ、実況のスタイルについては、自由にやらせてくれました。今でも覚えている言葉があります。「いいか、お前はこれから、この土地にアナウンサーという自分の家を建てるんだ。オレがお前にしてやれるのは、家が建つ前の土地に転がってる石ころや釘とか、邪魔になるようなものを取ってあげることまでだ。その土地の上に、お前がどんな形の家を作ろうと、それはお前がやれ。だから、実況で笑いを取りたいと思ったなら、自分がやりたいようにやってみろ」。



それは本当に首尾一貫していて、僕が『ニッポン放送ショウアップナイター』のオープニングゾーンで「きょうは、深澤大先輩の実況です」と告知をしていた時のエピソードがあって。当時、深澤さんがしゃべる時に雨の試合が多かったので「神宮にはまたまた雨雲が近づいています。深澤御大がしゃべると、どうも今年は雨が多いんです。これがホントの“おんたい”低気圧です」なんてダジャレを、本人がいる前で言ったことがあって(笑)。そんなことを言っても、深澤さんは「また、お前は!」みたいなことを言いながら、ニヤニヤしてくれていました。



■深澤弘さんから愛ある叱責「自分で聴き直せ!」 2007年の日本シリーズ秘話も



――深澤さんから褒められたこと、逆に厳しくされたことで、印象に残っていることはありますか?



うーん、褒められたことは一度もないかもしれないですね。「まぁまぁだな」くらいのことは言われたことがあるかもしれないですが。逆にひどく怒られたことは、ありました。木戸美摸さんという、巨人のピッチャーからヘッドコーチなどを歴任された方がいて、その当時は寮長をやられていたかと思うのですが、僕が実況、木戸さんが解説という試合があったんです。木戸さんとは、これまで取材などを通して関係ができていたのですが、本当に温厚な方でして。それで、ちょっと放送中に木戸さんをけなすような物言いをしてしまったんです。僕なりの距離感で言ったつもりだったんですけど、放送が終わった後に、深澤さんから「おい、お前、きょうの放送はなんだ!偉そうに人をバカにしたようなこと言って、聴いてられなかったぞ!二度ときょうみたいな放送をやるなよ。もう一度、自分で聴き直せ!」と叱責を受けました。



木戸さんは、僕よりかなり年上の方だったので、今思えば、いくら親しくしていたとしても、そのような物言いをするべきじゃなかったし、そもそも番組を聴いているリスナーのみなさんはそういう普段の関係はわからないわけで。実況の技術的なことで怒られることは、それまでたくさんありましたが、そういう角度で怒られたことが初めてだったんですよ。だから、立ち直るまでしばらく時間がかかりました。深澤さんから「最低だ!」と言われましたから。



――深澤さんからの愛ある叱責だったのですね。



もうひとつ、まぬけな話もありまして(笑)。深澤さんが実況で、僕がベンチリポーターを担当していた時のことです。深澤さんが実況中に「実況は私、深澤弘。ベンチリポーターは松本秀夫アナウンサーです」と何度も紹介してくれていたのですが、当時、僕はまだ駆け出しで…。深澤さんのテンポいい実況の合間に入って、リポートをいれることができなかったんです。イメージで言うならば、大縄跳びに入れない感じですね(笑)。結果、一度もベンチからのリポートを入れることができず、中継が終わった後に、深澤さんから「お前の名前を何回も出しているのに、1回も出てこなかったじゃねーか!」って怒られました(笑)。



――松本さんといえば、2005年のパ・リーグプレーオフで、千葉ロッテマリーンズが福岡ソフトバンクホークスを破り、31年ぶりの優勝を決めた際の“号泣実況”が語り草となっています。



1988年ぐらいにロッテ担当になったのですが、当時入ってきた選手たちと、年齢が近いこともあって、よく一緒に飲みに行ったこともありました。道は違えど、いわば、同じように歩んできた選手たちが優勝を決めて抱き合って泣いている姿を見て、ついついもらっちゃったんですね。こうして、思い入れのある同世代の人たちが優勝した瞬間を実況できるのは奇跡だなと。当時の解説は、田尾安志さんと板東英二さんのお2人でしたが、号泣する僕を見て呆れていて、まったく言葉を発さないんです(笑)。板東さんは、しばらく経ってから「アナウンサーと球団が癒着しとるんやって、初めて知りました」とおっしゃっていました(笑)。



――もちろん、この実況も深澤さんは聴いてらっしゃいましたよね?



「お前が泣いてどうする!」って言われました(笑)。深澤さんは、長嶋茂雄さんの現役引退セレモニーの実況を担当されていたのですが「長嶋が泣いています、ジャンボスタンドも泣いています」という名フレーズも残されているんです。だから、僕が「深澤さ

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