【エンタメ総合】
「もう一度、歌ってみよう」平野レミ×クミコが語るシャンソンと人生――12月3日『ニッポン・シャンソン・フェスティバル』出演へ

(左から)クミコ、平野レミ


 料理愛好家の平野レミは、実はシャンソン歌手としての活動歴があり、シャンソン界の人気歌手・クミコにとっては大先輩にあたる。2人は1982年から親交があり、銀座7丁目のシャンソンの殿堂「銀巴里」でともにステージに立ち、歌う喜びを分かち合ってきた仲だ。そんな2人が12月3日、有楽町よみうりホールで開催される『ニッポン・シャンソン・フェスティバル 2025~大人のためのシャンソンティックな歌たち~』で共演する。イベントに先駆け、25日にはBS朝日で特別番組『ニッポン・シャンソン~人生は素晴らしい~』が放送される予定で、2人の共演ステージがいち早く披露される。今回の対談では、再会のきっかけやステージ復帰への思い、歌と人生をめぐる軽妙な“レミ節トーク”が展開された。(聞き手:大野修平/シャンソン評論家)



【写真】楽しそうにトークをするクミコ&平野レミ



■クミコさんからのお誘いで、もう1回がんばってみようと思って



平野レミ(以下、レミ) 今年の2月に代々木上原にある「けやきホール」でベテランのシャンソン歌手、仲マサコさんが歌うバルバラの「いつ帰って来るの」を聴いたの。仲さんも私も夫を亡くして悲しい思いをしてるでしょ。だから聴きながらその思いがかぶってきてね。シャンソンってなんて綺麗なメロディーの曲が多いんだろう、と改めて感じたの。



 それで、あるシャンソン歌手の方から、銀座にあるシャンソンのライブハウス「蛙たち」に出ませんかってお声がかかったの。そこで2曲、「バラ色の人生」と「シャンソン・ド・レミ」を歌ったのね。あとで録音を聴いたらとってもヘタで(笑)。歌はもうダメだ、と思ったの。ところがクミコちゃんに「12月3日、有楽町よみうりホールに出ませんか」ってお誘いを受けて。クミコちゃんに背中を押されて、新しい扉が開いたのよ。もう1回がんばってみようと思って、ボイストレーニングも始めたの。



 和田さん(イラストレーター・和田誠さん)が私を嫁にもらいたい、と父にあいさつに来たときに、お父さんがこう言ったんだって。「レミはシャンソンが好きだから取り上げないでやってくださいね」って。そして結婚。あっという間に子供たちは大きくなって家を出ていった。大きなテーブルも小さくなり、和田さんとご飯を食べていたときに「これで私もうやることがなくなった」って言ったら、和田さんがこう答えたの。「レミにはまだやることがあるよ」って。そのあとレミパンが大いに売れちゃったのね(笑)。そしたら和田さんがね、こう言うのよ。「そのお金の使い道がないだろ。それでCDを作ろう」って。それで超一流のミュージシャンをメンバーに入れて、フルオーケストラで歌ったの。出来上がったCDを外国人墓地に持って行って「お父さん、できたよ」って見せたの。歌はやっぱり好きなのよね。



クミコ そのときは歌手を続けていたんでしょう?



レミ 歌ってた。でも歌手って新しいドレスを作ったり、音合わせとか化粧したり大変じゃない、やることがいっぱいあって。面倒くさいなって思っていた矢先に料理の仕事がどんどんきちゃってさ。和田誠さんの女房ってことで、私に仕事を依頼してきたのよ。



 私が料理作ってみんなにごちそうするでしょ。そうするとみんな「おいしい、おいしい」って言ってくれるじゃない。私が歌ってバァーって拍手をもらうのと、幸せな感じが一緒なの。だったらシャンソンじゃなくて、料理やろうと思ったの。面倒くさくないからね(笑)。私は小さい頃、日本の歌謡曲はあまり好きになれなかったの。でも、シャンソンはメロディーが綺麗なのよ。(フランス語で)「Parlez-moi d'amour~」とかさ。



――「聞かせてよ愛の言葉を」ですね。お父様の平野威馬雄さんはフランス文学者でいらっしゃるから、幼い頃からフランス語は耳に馴染んでいたでしょう?



レミ 父から「ちゃんと真面目に習うかい?」と聞かれたの。佐藤美子さんっていう、やっぱり外国の血が半分入った先生がいたのね、横浜に。で、習うことになった。そしたら「教えてあげるけど、プロになってはいけませんよ」って言うの。「なんで」と尋ねると、「プロはお金を取る商売で、お金ってとっても汚らわしいものだから、絶対にお金のことは考えてはいけませんよ」って答えたの。それでね、先生、私から月謝を取ってたよ。(笑)。でも、先生に内緒で、日航ミュージックサロンのオーディションを受けたの、ダメもとでね。そしたら受かってね、そこで歌ったらギャラを1350円もらったの。



――そのお金を月謝で持っていったら、「汚らわしいから払わなくていいです」って言われましたか?



レミ いいえ!(笑)



■私の歌を聴きにきたはずなのに……



――クミコさんはどんなきっかけで歌の世界に入られたんですか。



クミコ 早稲田大学を卒業して、ヤマハのポピュラーソングコンテストを受けました。それからヤマハ世界歌謡祭に出場したんですが落選しました。その頃、銀巴里の新人オーディションに応募したんです。ちょうど金子由香利さんが大ブレイクしていたときだったので、新しい人材を採用してみようということで出演が決まりました。当時の私は越路吹雪さんの歌う「サン・トワ・マミー」しか知りませんでした。銀巴里には越路さんのレパートリーを歌う人はいなくて、異端者のように見られましたね。そこで、レミさんと出会ったのです。1982年に銀巴里に入って、その後、何回かご一緒する機会がありましたよね。



レミ うん、そうだった。あるとき、TBSのディレクターが「レミさんの歌を聴きたい」ってやってきたの。一緒に出てたクミコちゃんの歌を聴いたらその人、「クミコさんの歌はいいね」って、クミコちゃんの話ばかりなの(笑)。



クミコ TBSが放送してた『沢田研二ショー』っていう番組があったんですね。7月に「シャンソンの日」っていうのがあって、そこになぜか呼ばれて。頭の先から靴まで、上下で3000円しない服装で行ったんです。そのとき、エノケン(榎本健一)さんのヒット曲「洒落男」を替え歌にして歌いました。そんな歌をシャンソンの殿堂である銀巴里でも歌っていたの。だから社長にも嫌われちゃったんだと思うのね。マネージャーから「銀巴里もそろそろクビだね」と言われたんですけど、そうこうするうちに銀巴里が閉店することになって。



 あのときの『沢田研二ショー』のもうひとりのゲストは嵯峨美子さんでした。銀巴里の先輩で素敵なシャンソンを歌っていらっしゃいました。この人ならわかるけど、なぜ私なんだろうと思った。



レミ ほんとはそのディレクター、私を使おうと思って銀巴里に来たんだけど、クミコちゃんがいたから乗り換えちゃったんだよ(笑)。



クミコ 素通しのメガネかけて、髪チリチリで「俺は村中で一番~」って歌ってた。1920年代の大正から昭和にかけて流行したモボ(モダンボーイ)、モガ(モダンガール)の時代に、田舎から出てきた青年の歌だったんだけど、二丁目で騙されるという歌にしちゃった。



■12月のコンサートではどんな曲を?



――12月3日、東京・有楽町よみうりホールで開催される『ニッポン・シャンソン・フェスティバル2025』に、クミコさん、松田美由紀さん、中澤卓也さんとともにレミさんも出演されますね。どんな曲を歌われる予定でしょうか。



レミ 東京芸術大学の先生、松田昌さんが作った曲があってね。「私ひとり」っていうの。その人がピアニストとコンサートをしたのよ。ピアニカを演奏してね、すごくよかったの。で、CDを出すときに、和田さんに作詞を頼んだの。「悲しい時は星を見ると、星が全部いろいろなことを救ってくれるよ」っていう、いい歌詞でね。自分が先にこの世を去ることがわかっていて、私を応援してくれるような歌だったの。それを聴くと涙出てきちゃうんだけど…。歌うと泣いちゃうから、歌わないね。



――(取材現場にいた全員)えー!(笑)



クミコ 歌わないの!?



――そこまでおっしゃったなら、歌いましょうよ。「聞かせてよ愛の言葉を」のほかに歌いたい曲は?



レミ 先日、テレビ収録用に歌ったのは「リヨン駅」。ヴァース(歌い出しの語り部分)があると良いねって和田さんが作っちゃったの。「シャンソン・ド・レミ」も和田さんで、「バラ色の人生」も和田さんの訳詞。



クミコ これからもやろうよ、せっかくなんだから。



レミ それから、「おまえが生まれた日~どうして」。これも和田さんの歌詞。



クミコ ほんと、シャンソンティックな歌だ。



レミ 和田さんってね、会社から帰ってくると必ず「何かやることある?」って聞いてくれるの。私が文章を考えていると読んでくれて。「この最後の文章を始めに持ってくるといいよ」って直してくれるの。すると俄然よくなっちゃうの、ほんと

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