《連載:わたしの町の大煙突》(中) 姿と歴史 市民を魅了
日立の大煙突が地響きとともに、3分の1を残して倒壊した。
1993年2月19日。突然の出来事だった。
14年に155・7メートルの高さで完成した大煙突は、住民と企業が一体となって煙害を乗り越えた象徴だ。
市民はその姿と歴史に魅了され続けている。
■圧倒され写真に
大煙突の雄姿を17年間にわたり写真に収めてきた日立市滑川町の樫村博康さん(81)もその一人だ。
きっかけは86年。大煙突周辺の山に家族でハイキングに出掛けた時に受けた強い印象だ。
「間近に見た大煙突は想像以上に大きく、圧倒された」
市内で開業医をしていた樫村さんはこれ以降、診療を終えると山に向かい、夢中でシャッターを切った。
季節感を織り交ぜながら、さまざまな角度から撮影する中で、ふと思った。「上から見たら、どんなだろう」。87年にヘリコプターからの空撮を実現し、「もくもくと煙が出てくる口先を鮮明に覚えている」。
倒壊の予感はあった。大煙突下の地面に赤黒いコンクリートのかけらが落ちていたからだ。
実際に倒壊したとの知らせにも驚きはなかったが、大切なものを失った寂しさが胸の奥から込み上げてきた。「心に穴があいたような空虚さを感じた」
すぐに大煙突の補修作業をカメラで追った。「これだけは逃さないと駆り立てられた。記録に残したかった」
■変化を風景画に
大煙突と煙道を見上げる場所で、同市城南町の岡村参次さん(85)はスケッチブックを広げた。2時間で1枚の水彩画を描き上げた。
絵を本格的に描き始めたのは退職後だ。旅行先の欧州で町並みなどを描いたが、時代とともに変化する自分の町を残したいとの思いが強くなった。
2003年に「日立をスケッチする会」を立ち上げ、十数人の仲間と月1回、写生会に取り組む。
題材については事前に会員同士で成り立ちを調べる。倒壊後の大煙突も何度か取り上げた。「何のために建てられたのか。その歴史の深さが魅力だ」
大煙突を初めて描いたのは約15年前。当時と比べて煙道の数は減り、変化は明らかだ。
「消えゆく景色の美しさを伝えたい」。絵筆を強く握りながら語った。
■詩に感謝を託す
32年前、会社員だった同市高鈴町の貴島光彦さん(84)は東京出張からJR常磐線で市内に戻る車窓から、大煙突を眺めた。
小説「ある町の高い煙突」を読み終えたばかりだったこともあり、帰宅後に熱い思いを詩にした。
東京にいた頃、光化学スモッグの影響で息子が長年、ぜんそくに苦しめられた。公害には無関心ではいられなかった。
「煙害克服に向けて建てられた大煙突が日立にあるという事実を重く感じた」
詩の一節に、大煙突への感謝を込めた。
〈高く高く聳びえ立ち 眼下の人びとを守り来たれり〉
貴島さんの詩は後に、市民吹奏楽団で指揮者を務めていた見田良雄さん(66)によって曲が付けられ、大煙突の賛歌として1992年の市民コンサートで披露された。