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結城ブレーブス 後世に伝えたい 住民3人、今も熱い思い 活動1年、プロ野球チーム 茨城

「結城ブレーブス」の練習場所だった住吉神社に集まった野沢稔さん、清水晃さん、石嶋智雄さん(右から)=結城市結城
「結城ブレーブス」の練習場所だった住吉神社に集まった野沢稔さん、清水晃さん、石嶋智雄さん(右から)=結城市結城


戦後間もない1947年、茨城県結城市(旧結城町)にプロ野球チームがあった。その名は「結城ブレーブス」。活動期間はわずか1年足らず。まるで夢物語のようなチームが地元に存在したことを「語り残したい」と、熱い思いを持つ人がいる。

3月1日午後。市内の清水晃さん(94)宅を旧知の野沢稔さん(86)と石嶋智雄さん(76)が訪ねてきた。久しぶりの再会に笑顔があふれた。3人は世代は異なるが市役所で働いた経験があり、結城にプロ野球チームが存在したことにロマンを抱き、誇りを持ち続けている。

ブレーブスは、国民リーグと呼ばれた新興の「国民野球連盟」に所属した。巨人などが所属する既存リーグとは別の組織だった。ブレーブスのほか宇高レッドソックス、大塚アスレチックス、唐崎クラウンズ(クラウン)の4チームで出発。47年、東京・後楽園球場などで夏と秋にリーグ戦を開催したが、事業運営は立ちゆかず、翌48年は実施されなかった。

清水さんは神社の境内や酒蔵の中庭でキャッチボールなどの練習をする選手たちの姿を覚えている。「ユニホームはバラバラ。誰が誰かは分からないが、子ども心に上手だなと見ていた。(住民は)国民リーグなんて言葉は知らない。戦争が終わりプロ野球もやっとのことだった」と振り返った。

2006年6月、元市助役の野沢さんと清水さんらが発起人となった「結城のプロ野球チーム『結城ブレーブス』のロマンを求める会」が、当時の市長に趣意書を提出した。趣意書では、現在のプロ野球2リーグ制の「創始者」として球界改革に奔走したと説明。「記録や選手の遺品、エピソードなどを収集し、これを後世に残し、結城市の活性化に資する」などとした。

ブレーブスは結城の会社社長がオーナーを務めたとされる。清水さんはオーナーに会ったことがあるといい「豪放磊落(らいらく)な人だった」と思い出を語った。

野沢さんたちは同年9月と07年10月に埼玉県内に住む元ブレーブス投手・林直明さんを訪問した。林さんから4チームで地方興行を行ったこと、九州で興行主にだまされた苦労話を聞いた。エースで活躍した林さんは「練習する場所がないから、お寺や神社の参道でキャッチボールをやった」「結城町には1年もいなかった」と話したという。

3人が集まった日、石嶋さんの運転で同市結城の住吉神社に向かった。境内が練習場所だった。清水さんは砂利敷きの駐車場を見て、懐かしそうに表情を和ませた。

市内に記念碑もない幻のチーム。かつて市役所OBによる野球チームにもブレーブスの名前が使われた。メンバーだった石嶋さんは「ブレーブスの名を残したかった。愛着があり、誇りだ」と話す。野沢さんは「地域の財産。もっといろいろな人に知ってほしい」と願っている。

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