《いばらき戦後80年》空襲、民間被害救済を 茨城県疎開の河合さん 法案成立呼びかけ

太平洋戦争時、茨城県に1人で疎開中、1945年3月10日の東京大空襲で家族3人を亡くした河合節子さん(85)=千葉県千葉市=が、被害に遭った民間人の救済を求め活動している。戦時中、日立市や水戸市など茨城県内を含め、全国の多くの都市が米軍の空襲で甚大な被害を受けた。戦後80年となる今、「負傷者や遺児の高齢化が進んでいる。今国会で救済法案を成立させてほしい」と呼びかけている。
河合さんは5歳の時、東京・深川から茨城県西茨城郡宍戸町(現笠間市)の叔父の家に疎開。数週間後に東京大空襲があった。叔父の家近くの高台から、東京方面の空が赤く染まるのを見たという。この時、母、3歳と1歳の弟の3人を亡くし、父が大やけどを負った。
叔父の家では温かく対応された。その後、河合さんは家族の死を知らされないまま、友部国民学校(現笠間市立友部小)に入学。終戦間近に、体中に包帯を巻いた父が現れ、家族の死を知らせた。そして、愛知県の父の実家に一人で預けられた。「5人家族だったのに」。この時感じた寂しさは今も忘れないという。
本土空襲では、本格化した44年11月~45年8月の間に、約46万人が犠牲になったとみられている。空襲や艦砲射撃により日立で1500人以上、水戸では300人以上が死亡するなど、各地で甚大な被害を出した。
政府は旧軍人・軍属に恩給や遺族年金を支払う一方、空襲で被害を受けた民間人や遺族らへの補償を行っていない。
民間の被害者を巡る民事訴訟では、87年の最高裁判決が「国の存亡に関わる非常事態の下では国民が等しく受忍しなければならなかった」と「受忍論」を展開。2009年の東京地裁判決は「救済はさまざまな政治的配慮に基づき、立法を通じて解決すべきもので、国会の幅広い裁量に委ねられる」と「立法裁量論」を適用した。
09年の民事訴訟で原告の一人だった河合さん。現在は全国空襲被害者連絡協議会(空襲連)の事務局次長を務め、防災頭巾をかぶって国会議事堂の前に立つ「こんにちは活動」を140回以上続けている。
戦後80年の今年、超党派の空襲議連が救済法案の国会提出を模索している。同議連が制定を目指す法案では、空襲や艦砲射撃などで心身に障害を負った人らに50万円を支給し、被害調査などを行うとしている。
東京大空襲で両親と妹を亡くした空襲連の共同代表、吉田由美子さん(83)=同県鹿嶋市=は「国から謝罪も補償もないままでは、家族が無駄死にしたと感じる。私自身も空襲後、新潟の親族宅でつらい体験をした」と話し、救済法案の成立と国からの謝罪を求めた。
河合さんは「今年に入って議連の幹部が石破首相に面会したと聞いた。(国会提出に向けた)準備が進められていると聞き、期待している」と話す。自身は同法案で補償対象外だが、「政府が民間人の犠牲者を出したことを歴史に刻み、補償を制度に盛り込むことが大切」と力を込めた。