次の記事:TX土浦延伸 27年後黒字 茨城県試算 東京一体整備で 

《東日本大震災14年》兄の供養「生きる限り」 北茨城の平塚さん 

兄の平塚幸男さんをしのんで仏壇に手を合わせる信次さん=北茨城市磯原町豊田
兄の平塚幸男さんをしのんで仏壇に手を合わせる信次さん=北茨城市磯原町豊田


茨城県北茨城市磯原町豊田の平塚信次さん(86)は、東日本大震災で津波により兄の幸男さん=当時(80)=を亡くした。大震災から14年目の日を前にした10日、茨城新聞の取材に応じ「自分が生きている限りは供養してやりたい」と語った。

同市では当時、最大で高さ6.7メートルの津波が沿岸部に押し寄せた。幸男さんは自宅近くで津波に襲われたとみられ、海水を大量に飲み、搬送先の病院で息を引き取った。

信次さんは高台に避難して津波を逃れた。発災の翌日、姉の久江さん(97)と妻の桂子さん(84)とともに幸男さんを夕方まで探し歩き、県警高萩警察署で遺体を確認した。病院での最後の言葉は「寒い」だったと聞いている。幸男さんの住宅は津波で荷物が全て流され、柱が2、3本立っているだけの状態だった。「津波は根こそぎ持って行く」と恐ろしさを語る。

幸男さんは幼少期に病気になり左半身が不自由だったが、何でも自分でやり、写真を撮りに遠くへ自転車で旅行していた。周囲に親しまれる人だったという。田植えの時などは手伝いに来てくれた。「津波がなければ生きていた」と思っている。

震災から14年を迎え、久江さんは「あっという間だった。なんで早く逃げなかったんだろう」と悔やむ。信次さんによると、命日にはきょうだいが集まって墓参りしていた。しかし、高齢になり体力も落ちているため、今年は墓参りに行かずに自宅の仏壇で手を合わせるつもりという。

震災当時は物流が寸断されて花が手に入らず、信次さんの自宅の庭に咲くスイセンを手向けた。今年も、仏壇にはスイセンが供えられている。震災以降も、全国で自然災害が発生している。自分たちの経験から「津波があったら、とにかく早く逃げることが一番」と話した。



最近の記事

茨城の求人情報

全国・世界のニュース