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笠間城天守に復元可能性 小山高専生と教授が研究 修理歴記載の棟札発見 茨城

笠間城の建築物に関する研究成果を発表する神宮暁さん=笠間市笠間
笠間城の建築物に関する研究成果を発表する神宮暁さん=笠間市笠間


笠間城(茨城県笠間市笠間)の建築物について、調査研究を進めてきた小山高専専攻科建築学コース2年の神宮暁さんと同高専建築学科の安高尚毅教授が、成果を発表した。天守の旧材を用いて再建されたとされる佐志能神社拝殿から江戸時代の棟札が見つかり、修理歴が細かく記載されていたことを明らかにした。これらから神宮さんらは天守が復元できる見込みもあり、「重要文化財となる可能性は十分ある」と指摘した。

発表は笠間稲荷神社(同所)で「13番目の現存天守発見!? 笠間城天守と八幡台櫓(やぐら)の復原考察-佐志能神社拝殿と真浄寺七面堂の実測調査を通して-」と題し、11日に行われた。

笠間城は鎌倉時代から続く山城で、江戸時代以降も笠間藩の城として建物が立ち並び、明治時代に廃城となった。八幡台櫓は城下の真浄寺に七面堂として移築。佐志能神社拝殿に関しては天守の部材を用いて建築されたとされるものの、詳細な調査が行われていなかった。

神宮さんらは笠間城の建築遺構となる佐志能神社拝殿の実測調査に取り組み、①天守の部材がどの程度残っているか②天守の復原は可能か-について1年間、研究してきた。真浄寺七面堂の改造を明らかにし、笠間城天守の理解に役立てる基礎的史料にすることとした。

真浄寺七面堂を巡っては、1、2階の内壁や床、窓の位置を紹介し、「全体として当初材が多く残っており、大きな改造は行われていなかった。窓の痕跡が確認された」と説明した。八幡台櫓の復元については「真浄寺七面堂の正面の向拝と背面の棟を取り払った、典型的な層塔型の二重櫓の姿をしていたと考えられる」と考察した。建築年代は松平康重時代の慶長年間に建てられた可能性が高いとした。

佐志能神社拝殿は「石垣が崩落し、社殿も崩壊が始まっている状態。梁(はり)の部分に柱を転用したと思われる部材が使われていた。幣殿の傷みが激しく、塀が消失している」と指摘した。

拝殿の痕跡調査の際、小屋裏から2枚の棟札を見つけ、1枚は明治時代のものだったが、もう1枚は江戸時代のもので、「修理歴などの変遷が細かく記載され、天守の窓形状や屋根形式が判明した」と明らかにした。

天守は「白壁で2階平面は東西に細長く四方に窓を開いていた」などとし、(棟札の)柱の本数の記述などから天守1階の復元平面図を作成した。記述から創建を1649(慶安2)年とした。

棟札が残されていたため、天守1階がほぼ完全に復元でき、上部構造も復元できる可能性があるという。天守の建築年代や修理履歴が把握できることに触れ、「天守の一部をほぼそのまま利用した佐志能神社拝殿の価値は、城郭建築史上非常に高い」と位置付けた。

その上で「一刻も早い保存と修復が求められる。一部しか現存していないので現存天守として広く認識されるかは不明」などと課題を挙げた。



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