中世の常陸平氏に光 ゆかりの仏像や絵図展示 茨城の原形つくった一族 茨城県立歴史館



平安時代、桓武天皇の皇子たちから始まった平氏一族のうち、常陸に根を下ろした武士団を「常陸平氏」と呼ぶ。茨城県立歴史館(同県水戸市緑町)の企画展「常陸平氏をさぐる-将門・清盛につながる一族-」は、佐竹氏や小田氏以前に常陸を治め、茨城の原形をつくった常陸平氏に光を当てた。現在の水戸、霞ケ浦沿岸、筑波山麓などで勢力を広げ、16世紀に佐竹氏に滅ぼされるまでの系譜を、ゆかりの仏像や絵図を基にひもといている。
平安京を開いた桓武天皇の系譜をひく高望(たかもち)王は、889(寛平元)年に「平」姓を賜り、上総の国司となる。その子孫たちは関東で勢力を広め、約100年後には、上総、下総、常陸、武蔵、相模などにおいて、「坂東平氏」と呼ばれる武士団を形成した。
935(承平5)年、坂東平氏の内紛に起因する平将門の乱は、京都の朝廷を震撼(しんかん)させた。それを鎮めたのが将門のいとこに当たる貞盛・繁盛兄弟。兄の貞盛は後に伊勢(三重県)に赴き、子孫は「伊勢平氏」と呼ばれた。伊勢平氏は朝廷にも仕え、やがて日本で初めて武家政権を樹立する平清盛を世に出した。
弟の繁盛の子孫たちは常陸の国司になり、11世紀以降は常陸国内での勢力拡大を志向。常陸平氏と呼ばれる彼らは、大半が名前に「幹」の字を用い、「幹」から「枝分かれ」するように広がる。
それぞれ現在の水戸、霞ケ浦沿岸、筑波山麓などを支配し、地名などにちなんだ名字を称した。例えば水戸近辺では、吉田、馬場、石川など。霞ケ浦沿岸では、鹿島、行方、東条、大掾(だいじょう)など。筑波山麓では真壁、小栗などの各氏。
本展は、将門の乱で功績のあった繁盛を基点に、戦国時代まで約600年続いた常陸平氏の流れを俯瞰(ふかん)。ゆかりの仏像や絵図、文書などの史料55件(入れ替え含む)を並べている。
このうち重幹、子の清幹を基点に那珂川流域の吉田郷(水戸)で勢力を誇った流れでは、「木造阿弥陀如来(あみだにょらい)立像」(12世紀末)を展示。吉沼観音堂(現在の水戸市吉沼町)近くにあった阿弥陀院の本尊とされ、馬場の系譜から分かれた吉沼七郎某(なにがし)の名を確認した。常陸平氏の流れをくむ吉沼氏の存在が想定され、造仏・信仰に関与した可能性を示している。
ほかに、鹿島一族の中居氏が信仰を寄せた「木造如意輪観世音菩薩(にょいりんかんぜおんぼさつ)坐像」(12世紀初頭)、真壁家歴代当主の一人で道無こと久幹の肖像画とされる「伝真壁道無(久幹)像」(16世紀)などが並ぶ。また本展の「裏テーマ」として、常陸平氏を滅ぼした佐竹氏の18代当主、義重所用の「鉄茶羅紗包(てつちゃらしゃづつみ)腰取丸胴(こしとりまるどう)具足」(16世紀)も見どころとなる。
同館の飛田英世資料調査専門員は「佐竹氏や小田氏よりも早く広範囲に常陸を治めた常陸平氏は、茨城の原形をつくったとされる。ただ、他を服従させるほど強大な武士団にはならなかった。こうした実態は、小さな都市が点在する現在の茨城の姿にも通じているのでは」と指摘。
「歴史上有名な平将門や平清盛にもつながる常陸平氏。本展を通じて、常陸の中世像に思いをはせていただければ」と呼びかける。
会期は6月22日まで。月曜休館。同館(電)029(225)4425。