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《いばらき戦後80年》日立空襲 工場犠牲者悼む 遺族「戦争ない世に」

防空壕跡に建てられた「殉難の碑」前で日立空襲の犠牲者を弔う遺族ら=日立市幸町
防空壕跡に建てられた「殉難の碑」前で日立空襲の犠牲者を弔う遺族ら=日立市幸町


太平洋戦争末期の日立空襲から80年を迎えた10日、茨城県日立市の日立製作所では亡くなった従業員を弔う慰霊祭が行われた。米軍による1トン爆弾の空爆を受けた同社日立事業所では、約600人が犠牲になった。遺族や工場関係者は「二度と戦争のない世の中に」と平和への願いを込めた。

1945年6月10日朝、同社海岸工場は100機を超える米軍爆撃機B29の空襲を受けた。投下された1トン爆弾は806発に及び、工場の建物は9割以上が破壊された。休日で出勤者は少なかったが、従業員634人が犠牲になった。隣接する地域でも多くの市民が命を落とした。

同社はこの日を「戦災の日」と定め、毎年慰霊行事を開催。空襲が始まった時刻と同じ午前8時51分に社員約2000人が黙とうした。

同社幹部は犠牲者が眠る成沢霊園(同市西成沢町)にある慰霊碑「陶輪碑」や、地盤が崩れ多くの従業員が生き埋めになった同工場内の防空壕(ごう)跡で線香を上げ、哀悼の意を示した。

同市内のホテルでは遺族らを招いた戦災殉職者慰霊祭が約30年ぶりに執り行われ、約200人が出席した。

同社の徳永俊昭社長は「悲惨な歴史の一ページは忘れられず、痛恨の極み。今日の発展は尊い犠牲の上に築かれたことに思いをはせ、後世に確実に伝えていきたい」と述べた。

小川春樹市長は「犠牲になったみたまの遺志を受け継ぎ、真に平和で豊かな街の実現に努力していく」と訴えた。

この日は多くの遺族も出席した。市遺族会副会長の同市東滑川町、矢代克己さん(89)もその一人。同工場の技師だった父の道夫さん=当時(37)=が、逃げ込んだ敷地内の防空壕で生き埋めになり亡くなった。当時9歳の矢代さんは、約5キロ離れた自宅にいた。空襲警報が鳴り、工場にあった図面の紙が切れ切れになって家まで飛んできたという。

遺族の世代交代が進む中、矢代さんは自分の子どもに引き継ぎながら毎年慰霊を欠かさない。「慰霊はどんなことがあっても続けてほしい。これからも国は絶対、戦争に加担してはならないと痛切に思う」と言葉を振り絞った。



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