《みと・まち・情報館便り》水戸藩医学「仁の心」 研究員講演 先駆的取り組み解説

茨城県水戸市南町2丁目の水戸証券ビル1階ホールで14日、茨城新聞みと・まち・情報館主催の歴史講座が開かれ、県弘道館事務所主任研究員の小圷のり子さんが「水戸藩の医学と弘道館医学館」をテーマに講演した。江戸時代、水戸藩は先駆的に医学・医療教育に取り組んだ。小圷さんは「徳川光圀、斉昭にしても、藩主自らが医学に高い関心を持っていた。根底に、疫病から領民を救いたいという『仁』の心があったところが、本当に素晴らしい」と強調した。
小圷さんは、水戸藩の医学を、光圀(2代藩主)、原南陽(藩医)、斉昭(9代藩主)の前・中・後期に分けて解説。
水戸藩の医学の基礎を築いた光圀は「自ら医薬書8巻を出版。『救民妙薬』も編さんさせている。『救民妙薬』は携帯サイズで、文字が大きく、ふりがなもあり、実用書として普及した。日本初の〝家庭の医学書〟といってもいい」と指摘した。
原南陽は、実証的医学を導入し、藩内外に多くの門人を輩出。日本最大の藩校・弘道館を開いた斉昭は、敷地内に医学館を開設した。
「医学館はまさに医学教育・医療機関のセンターで、領内の郷医や町医らを育てた。製薬も行い、薬園、牛乳や牛酪をつくる牛部屋もあって、困窮者には無料で施薬していた記録も残っている」と小圷さん。
斉昭は、天然痘が流行すると、種痘(予防接種)にも力を入れた。華岡青洲に入門、シーボルトに種痘を学んだ本間玄調が医学館教授を務めた。
小圷さんは「医学・医療が全領域で計画的に行われたのが、先駆的だった。焼失、閉館するまで29年間、仁の心をもって領民の命を支えた医学館。弘道館は心の遺産ともいえる」と締めくくった。
参加した水戸観光コンベンション協会の木村久美子さん(63)は「水戸が医療の先進地だったなんて、誇らしい気持ちになった」と話した。