《連載:あの時私は 戦後80年20紙企画》(8) 1945年4月12日 福島・郡山 須釜千代さん(95)、伊東嘉子さん(95)



■昼の空襲 必死に避難 亡き友の名、銅板に
白河高等女学校(現白河旭高)=福島県白河市旭町=の卒業生、須釜千代さん(95)=同市立石=と伊東嘉子さん(95)=同市日影=は3月17日、久しぶりに母校を訪れ、正面玄関脇の石碑に貼り付けられた銅板を見詰めた。思い出の詰まったカラタチの木に見守られる場所で、銅板に刻まれた同級生14人の名前を読み上げながら、あの日を振り返った。
1945年4月12日。朝から、美しい青空が広がっていた。15歳だった2人は、学徒動員で母校から約40キロ離れた郡山市の保土谷化学工業郡山工場で、作業場の消毒や薬品処理に従事していた。午前中の業務を通常より早めに終え、昼休みを取ろうとしていた。ふと見上げると、空に白い飛行機雲が筋を引いていた。
「B29だ!」と思った途端、サイレンが鳴り響いた。爆撃機の編隊が次々に焼夷(しょうい)弾を落としていった。係ごとに避難する防空壕(ごう)が決められていた。機銃掃射の中、2人は工場から500メートルほど離れた畑の真ん中にある防空壕まで必死に走った。既に20人くらいがおり、体を寄せ合っていた。頭上からすさまじい音がして壕が揺れた。死の恐怖にひたすら耐えた。
軍需工場が立地する軍都を狙った「郡山空襲」だった。同級生14人が亡くなった。ともに寮生活していた友人だった。実家から送られてきたいり豆を食べながら火鉢を囲んで流行歌を歌ったことが思い出された。一緒に歌えなくなった一人一人の顔を思い浮かべた。なぜ彼女たちの命が奪われなければならなかったのか-。
未来を絶たれた彼女たちの分までしっかり生きよう。終戦後、須釜さんは中学校の家庭科教員に、伊東さんは白河市役所勤務と、それぞれの道を歩んだ。
卒業証書を手にすることができなかった友のために母校の創立100周年に合わせ、銅板に14人の名を刻んだ。戦争犠牲者を悼んで建立された乙女の像「想」の傍らに、銅板を設置した。
毎年4月12日、郡山市の如宝寺で行われる慰霊祭に足を運んできたが、年々、参列者が少なくなってきた。戦争の悲惨さ、平和の大切さを次の世代に伝えなければならない。同級生の絆を胸に、一日一日を大切に生きる。亡き友に誓う。(福島民報・渡部純)
★郡山空襲
1945年4月12日、7月29日、8月9日、8月10日の計4日にわたる米軍の空襲。最も被害が深刻だったのは4月12日で460人が亡くなった。保土谷化学工業郡山工場は国内で唯一、軍用機の燃料添加剤を生産していたため標的になった。地方の軍事施設を爆撃する最初の空襲だった。