《いばらき戦後80年》満蒙義勇軍の実像描く 祖父が入所、画家・弓指寛治さん 水戸で8月展覧会

戦前戦中に10代の若者が旧満州(中国)に開拓民として送り出された「満蒙開拓青少年義勇軍」。終戦間際のソ連軍侵攻などで、一説には2万人以上が命を落としたとされる。その国内唯一の訓練所が当時、茨城県水戸市内原町にあった。戦後80年の今年、元義勇軍の祖父を持つ東京都内の画家(39)が、内原を訪ねたのをきっかけに、被害者と加害者の側面を持つ義勇軍や戦争の不条理を描いた。8月には内原で展覧会があり「何かを感じて」と話す。
画家は、新進気鋭の弓指(ゆみさし)寛治さん。亡き祖父は三重県出身で、義勇軍として満州に渡り、満州鉄道でレールを敷く作業に従事した。敗戦後は中国人の奇術師の親方に拾われ、各地を転々として日本へ戻った。
祖父は「もう一度満州に行きたい」とよく話していた。手向けとして、当時の満州鉄道の特急列車「あじあ号」に乗って満州に着いた祖父の姿を描いた。
この絵が、弓指さんを内原へといざなった。絵を見た評論家から、「満蒙開拓の父」と呼ばれた訓練所長の加藤完治について教わり、より深く義勇軍を知ろうと内原へ向かった。
市内原郷土史義勇軍資料館を訪れたほか、関連施設を探索。その中で、日本農業実践学園(同所)の籾山旭太学園長と出会った。
同学園の前身の学校は加藤が創設し、義勇軍とのつながりは深い。籾山学園長の案内で、周辺に残る遺構などを回った。家にも泊めてもらい、代わりに農作業を手伝うなど交流を深め「内原で農業を学んだ祖父と自分が重なった」。
実像に迫りたいという思いをさらに強くし、加藤に教わった学園の教員や仙台市にいる加藤の弟子、長野県内の資料館なども訪問。義勇軍の抱える複雑さを感じ取っていった。
不足する農地を外国に求めた国や農業関係者の考え、陸軍の大陸進出への思惑、奪った土地を開拓する加害性、敗戦後に満州に取り残された人々の悲惨な体験-。さまざまな事情が絡み合い、人によって義勇軍への感情はさまざまであることを認識したという。
深めた見識を基に、義勇軍に関する作品を描いてきた。市内原郷土史義勇軍資料館から展覧会の打診があり、新作も含め、8月1日からの展示に向けて準備を進めている。
新作には、三重県の義勇軍関係者の記念誌で知った「市川りきみ」さんの体験を反映させた。市川さんは、満州の訓練所を抜け出て現地の飯店を手伝ったり、アヘン窟で女主人らと仲良くなったりするなど「不良少年」だったが、最終的に兵隊となっていく。この姿を通して、義勇軍と戦争の不条理を表現した。
弓指さんは「何かを感じ、考え、持ち帰ってもらえる機会にしたい」と力を込める。