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《いばらき戦後80年》酪農 3代守り継ぐ 守谷・旧満州引き揚げ者開拓農協

酪農を引き継ぐ、伊藤フミ子さんの孫・隆之さん=守谷市大木
酪農を引き継ぐ、伊藤フミ子さんの孫・隆之さん=守谷市大木
入植した伊藤フミ子さん=守谷市大木
入植した伊藤フミ子さん=守谷市大木


茨城県守谷市にある大八洲(おおやしま)開拓農業協同組合は戦後、旧満州(中国東北部)から引き揚げた山形県出身者らによってつくられた。県内で現存する唯一の開拓農協で、湿地を開墾し幾多の水害に見舞われながらも一大酪農地を築いた。「開拓3代」といわれ、現在はその3世が引き継いでいる。

同農協は旧満州に入植した「大八洲開拓団」がルーツ。終戦後に約1年かけて大陸から引き揚げた。コレラなどの病気に旧ソ連軍や匪賊(ひぞく)の襲撃…。201人いたうち約6割の114人が病死・戦死した。

茨城県との協議で守谷、常総両市にまたがる菅生沼地区に約40世帯が入植した。鬼怒川と利根川に囲まれた三角州の湿地。耕し、酪農やコメ、畑作などを営んだ。関東鉄道常総線新守谷駅周辺の大井沢地区にも拡大した。任意組合を経て1948年、大八洲開拓農協ができた。

旧満州でも実践した「共同経営」の理念で、組合員は当初、テントで共同生活を送った。診療所や冠婚葬祭、教育などの社会保障全般を組合で支えた。

山形県出身の伊藤フミ子さん(100)は戦後、夫の故・谷義さん(2010年死去)と出会って結婚し、大八洲に入った。谷義さんは開拓団員で、シベリアに抑留された。

伊藤さんは外作業に不慣れだった。「惨めな思いをし、最初は毎日泣いていた。それでもみんな優しく手伝ってくれた」と述懐する。食料も不十分で、おかゆを分け合って食べた。「朝から晩まで一緒にいて、みんなはきょうだいのようだった」と懐かしむ。

大家族的な協働体制が旧満州から持ち帰ることのできた財産-。大八洲開拓農協編「大八洲開拓」は組合をこう評した。

大八洲の歴史は水との戦いと言える。カスリーン台風(1947年)をはじめ、毎年のように浸水しては家屋や作物が流され、飢饉(ききん)状態が6年続いた。伊藤さんは「みんなで牛の尻を押して高台に避難させた」と振り返る。堤防工事や住宅移転、農場かさ上げの対策で被害は減った。現在は酪農団地や牧草地が広がる。

時代の流れで組合の環境も変わった。高度経済成長期に守谷は東京のベッドタウンと化した。都市化の波が押し寄せ、宅地として土地を供給する一方で農場は縮小した。組合員は最盛期の約90戸から約60戸に減り、機械化で農業も個人経営に転換した。組合葬も簡素化し、コロナ禍で会合も減った。

初代組合長の故・佐藤孝治さんは「開拓の仕事を成し遂げるには3代かからねばできない」との言葉を残した。戦後80年を迎え、その3世が継ぐ。伊藤さんの孫・隆之さん(53)も酪農を守り、約70頭を飼う。「牧草地で自前で餌を供給でき、いい形で農業経営ができる」。大八洲で開発した飲むヨーグルトは学校給食にも出る守谷の名産だ。

伊藤さんは6月で100歳を迎えた。「子どもに孫に恵まれ、私は幸せ者」と1世紀の生涯を語った。

★開拓農業協同組合

戦後の食料増産や引き揚げ者・復員者などの就労確保を目的にした国策の開拓事業により、開拓者で組織された。農業協同組合法に基づく法人。山林原野などを開墾して畜産や酪農、高冷地野菜、果樹などを営んだ。都市化による離農はじめ、開拓行政の一般農政への統合で、組合も一般農協に合併して減少。茨城開拓20年の歩み編纂(へんさん)委員会編「茨城開拓20年の歩み」によると、茨城県は最多284(任意組合含む)があった。



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