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《いばらき戦後80年》戦争一色の学校 終戦「空っぽに」 新米教師だった中嶋さん(茨城・筑西) 校庭で野菜栽培

戦時下の学校生活を振り返る中嶋ヨシさん=筑西市内
戦時下の学校生活を振り返る中嶋ヨシさん=筑西市内


太平洋戦争中、学校教育は戦争一色だった。大村(現茨城県筑西市)の国民学校で新米教師だった中嶋ヨシさん(100)=同市=は、食糧増産を目的に校庭に野菜を植え、時には米軍機の機銃掃射を受けるなど過酷な学校生活を送った。出征先で戦死した兄に思いをはせるとともに「戦争ほどばかなことはない」と訴える。

大村出身の中嶋さんは、教員を養成する師範学校に通った後、1943年に地元の大国民学校(現在の明野五葉学園)に勤め始めた。毎朝の日課は、「御真影」と呼ばれた天皇の写真などを保管する「奉安殿」での拝礼で、「必ずやらないと教室には行けない決まりだった」と述懐する。

男子教員の応召に伴う人手不足で、三つのクラスを掛け持ちするようになった。校舎の半分は軍隊に貸し出され、兵隊が寝泊まりするようになると校舎内にシラミがわいた。「かゆくて勉強どころじゃない。話にならなかった」といい、児童は殺虫剤のDDTを振りかけられた。

食糧難で子どもたちの弁当は粗食になっていった。「お弁当の中身を見られるのが恥ずかしいから、みんな新聞紙で隠して食べた」。自宅に戻って昼食を取る児童もいたという。食糧増産を目的に運動場で畑を耕し、サツマイモや大豆を植えた。

ある時、屋外で米軍機の空襲を受けた。「パラパラパラパラ」と機銃掃射の音が鳴り響き、「米軍の艦載機がトンボのように飛んできた」。子どもたちに土手の下に隠れるよう叫び、難を逃れた。

終戦を告げる玉音放送は、学校で聞いた。やがて教科書が墨で塗りつぶされるなど教育方針は一変した。「今まで信じていたことが空っぽになってしまった」と振り返る。

中嶋さんは大切な家族を失った。兄の広瀬正一さんは、出征先のフィリピンで戦死した。中嶋さんと同じ教員で、高射砲の訓練を受けて戦地に向かった。

「フィリピンから1回、はがきが来ただけで、後はどうなったか分からない」と中嶋さん。家族に届いた遺骨箱に骨は入っておらず、「『広瀬正一の霊』という紙っぺらが一枚」だけだった。

間もなく戦後80年の節目を迎える。戦争の悲惨さを嘆き「戦争ほどばかなことはない。(人を)殺して喜んでいるばかがあるか」と訴えた。



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