《いばらき戦後80年》模擬原爆投下の歴史継承 北茨城・石碑建立や出前授業


「原爆投下の始まりがこの地にあったことを知ってもらい、被害による痛みや苦しさを自分事として捉えてほしい」
太平洋戦争末期、米軍が原爆投下の訓練用に開発した「模擬原爆」(通称パンプキン爆弾)。全国に49発投下された最初の1発は1945年7月20日、茨城県北茨城市に落とされた。この歴史を後世に伝えようと、市民3人が石碑を建立したり、小中学校で出前授業を行ったりして、平和への思いをつないでいる。
着弾地と推定される場所から約1.3キロ離れた同市磯原町。模擬原爆と同じ形をした石碑「模擬原爆北茨城着弾地之碑」が建つ。表と裏に「民忘れるべからず」と大きく彫られている。
模擬原爆の歴史を知った農業、野口友則さん(53)と石材業、神永峰敬さん(86)の2人が昨年7月に建立。縦0.9メートル、横1.8メートルの御影石で、表面には「広島、長崎の壮絶な原爆被害のはじまりはここ北茨城市にあった」と、野口さんが考えた文章が刻まれている。
裏面のデザインは神永さんが考え、日本地図の上に49カ所の着弾地点と日付、死傷者数を記した。被爆地の広島と長崎には赤い点を付け、一連の作戦だったことを示し、「原爆被害は遠くない」とのメッセージを込めた。「石で地域の歴史を後世に残すのが(石工の)自分に与えられた役割。一人でも多くの人に見てほしい」と語る。
■遺志
石碑建立を思い付いたのは、2020年に亡くなった野口さんの父、友朗(ともお)さんだった。幼少期に見た爆弾が模擬原爆の可能性が高いと18年に知り、記録を残そうと、神永さんに見積もりを依頼した。だが、2年後に他界。神永さんも子どもの頃、市内の空襲を目にした経験があり、遺志を引き継いだ。熱意は友則さんに伝わった。
模擬原爆投下の事実は米軍の資料から明らかだったが、死傷者がいなかったためか、詳細な記録がなかった。友則さんは建立に当たり、着弾の確証を得るため、郷土史家が着弾地と推定した山林(同市磯原町)の終戦後の航空写真を調査。投下されたと推定できる大きな穴を特定した。住民にも聞き取り調査を行い、確信を強めた。
推定着弾地は太陽光パネルが並んで一般の人が立ち入れないため、友朗さんが目撃した地点に近い場所に石碑を建立。「父の構想から6年強。形になって良かった」と友則さんは話す。
■託す
平和を願い着弾の事実を伝えたいとの思いは広がりを見せる。元教員の鈴木洋子さん(74)は友則さんの活動を通して模擬原爆投下を知った。教員時代は自費で購入した原爆の紙芝居や写真パネルを使い、平和学習に力を入れてきた。
退職後に知った郷土の史実。驚く一方で「子どもたちにも知ってもらわなければ」と思い立ち、今年2月から市内の学校で出前授業に取り組んでいる。
7月にあった市立関本小中の授業では実物大の模擬原爆をかたどった模造紙を用い、「模擬原爆が人類史上初の原子爆弾投下につながった」と説明。中学生に原爆の悲惨さを語った。
原爆が広島と長崎に投下されてから80年。「平和をつなげたい。それが私たち世代の願い」。再び教壇に立った鈴木さんは郷土の史実を通して、平和への思いを次の世代に託す。
★模擬原爆
米軍が1945年7月20日から8月14日にかけ、原爆投下の訓練用に投下した爆弾。18都府県に49発が落とされ、400人以上が犠牲になったとされる。茨城県は北茨城市と日立市に投下された。ずんぐりとした形や黄色の塗料からカボチャを意味するパンプキンの名で呼ばれた。長崎に投下された原爆「ファットマン」とほぼ同型で、重さ約4.5トン。核物質は搭載されていなかった。