次の記事:鉄骨の下敷き 建設作業中の女性死亡 茨城・小美玉 

終戦80年 15日「節目」 茨城県の戦後生まれ 9割に 記憶の継承、難しく 各地で式典、思い新た

空襲で焦土と化した水戸市街=水戸市南町、「戦後70年茨城の記録」より
空襲で焦土と化した水戸市街=水戸市南町、「戦後70年茨城の記録」より


戦後80年、節目の「終戦の日」を15日、迎えた。茨城県内外では戦没者を慰霊する式典などが各地で開かれ、平和への思いを新たにする。先の戦争では県民も、戦地や空襲などで多くの命が奪われた。点在する戦争遺構は当時の記憶や教訓を今に伝える。一方で、戦争を体験した世代が年々減り、今や戦後生まれは約9割に達する。記憶を継承する難しさが増している。

終戦の日の15日は、東京都千代田区の日本武道館で政府主催の全国戦没者追悼式が開かれる。県によると、県内からは遺族ら97人が参列する予定だ。

県内の戦没者慰霊祭・追悼式は、北茨城市が午前11時40分から同市磯原町の市民ふれあいセンター、高萩市は同11時50分から同市春日町の市総合福祉センターでそれぞれ開く。

坂東市は同11時50分から同市岩井の八坂公園で市遺族会主催の「平和の像慰霊祭」を執り行う。日立市では同11時15分から同市幸町の日立シビックセンターで平和集会を開いた後、JR日立駅前まで平和行進する。水戸市では同市見川の県護国神社で同11時半から終戦80年臨時大祭が開かれる。


県によると、県内の戦没者は計5万8102人。水戸空襲や土浦・霞ケ浦空襲、日立・勝田の艦砲射撃など、終戦間際には県内にも攻撃が相次ぎ、日立や水戸の市街地が焦土と化し、2000人近くが犠牲となった。

太平洋戦争時、関東地方の陸海軍飛行場の約4分の1が県内に建設されていた。東京に近く、鹿島灘に代表される長い海岸線を持っていたことが理由とされる。

霞ケ浦海軍航空隊(現・阿見町)が横須賀、佐世保に次いで全国3番目に開隊したのをはじめ、水上飛行機の訓練などが行われた鹿島海軍航空隊(現・美浦村)、飛行機の搭乗員養成を目的に設置された筑波海軍航空隊(現・笠間市)など、多くの航空隊や海軍基地、陸軍飛行場などが存在した。

土浦海軍航空隊は霞ケ浦海軍航空隊から独立。全国から少年を選抜し、若いパイロットを養成する海軍飛行予科練習(予科練)教育の中心を担った。太平洋戦争末期には特攻隊として戦場に送られ、多くの若者が犠牲になった。

水戸市(現・茨城大水戸キャンパス)では陸軍歩兵第二連隊(水戸二連隊)が編成された。日本軍守備隊の主力として、1944年9月に太平洋ペリリュー島に派兵され、2カ月半にわたって米軍と激戦を繰り広げた。結果、日本軍1万人余りが死亡した。


戦後80年の節目を迎え、戦後生まれの国民が約9割となり、戦争の記憶の風化が懸念されている。

県内でも同様に戦争体験者は減少している。今年1月1日時点の県常住人口調査によると、終戦時(45年8月15日)に20代以上だった県民は約1600人で、県内総人口(約280万人)の約0.05%だった。25年前の2000年の約19万5000人(総人口の約6.5%)と比較し、1%以下にまで減っている。

戦前生まれも約28万人(同約10%)で、00年の約85万人(同約28%)と比べて約3分の1にまで減少。戦争を体験した人たちが口頭で次の世代に語り継ぐことは年々難しくなっている。



最近の記事

茨城の求人情報