《いばらき戦後80年》部下ら犠牲、家族に「後悔」 終戦直前 常総線機銃掃射 機関士の故青木さん 記憶言い残す
終戦直前の1945年8月、常総筑波鉄道(現関東鉄道)常総線を走行中の列車が米軍機の機銃掃射を受けて数十人が死傷した。難を逃れた機関士の男性は、近くにいた部下の機関助手が犠牲になった当時の記憶や後悔を家族に言い残していた。戦後80年が経過し、家族は改めて部下を亡くした男性の無念に思いを巡らせ、「戦争は絶対にしてはいけない」と平和の尊さに目を向ける。
関東鉄道70年史や守谷町史によると、終戦直前の8月13日午後1時半ごろ、常総線守谷-小絹駅間を走っていた列車が、現在の新守谷駅(当時は未設置)近くで米軍機に急襲された。超低空から機銃掃射を浴び、機関助手と軍人を含む乗客数十人が死傷した。
惨事の中、機関士だった茨城県常総市の青木斉さん=2006年に96歳で死去=は難を逃れた。長男の妻はつ江さん(89)によると、青木さんは生前、銃撃時の様子を家族に語っていた。
煙が充満して視界が悪い中、顔を上に向けた瞬間、弾丸が目の前をかすめ、その弾丸はそばにいた機関助手の男性の頭を貫通し命を奪った-。そう振り返ったという。
常総線は当時、陸軍下館飛行場(同県筑西市)の影響で軍人の利用が多かった。軍需工場の工員や食糧増産に駆り出された学生に加え、東京や水戸などの罹災(りさい)者も沿線各地に流入して混雑が激しかったとされる。
多数の死傷者が出たことから、青木さんは「直前の駅で乗客らを避難させるべきだった」と後悔も口にしていた。駅を出発するよう合図が出されたとき「自分は出たくなかった」と家族に打ち明けており、はつ江さんは「空襲の気配を感じていたのではないか」とみる。
当時、青木さんの長男の広さん=今年3月に88歳で死去=は父の安否を確認しようと、家族と共に水海道駅へ急いだ。駅に着くと、そこには犠牲者のひつぎが並んでいたという。その後、自宅で再会した父の姿は「自分の父親と思えないくらい、服がぼろぼろに焼けていた」。
青木さんは現場に残された銃弾の薬きょうを保管し、助手の死を悼んでいた。命日には欠かさず、自転車で供養に出かけた。
機銃掃射の惨劇から80年がたつ。はつ江さんの長女、嘉枝子さん(65)は祖父の無念を思い「戦争は絶対にしてはいけない」と平和の尊さをかみしめた。










