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《いばらき戦後80年 証言》日立・空襲や艦砲射撃 大越ハルエさん 96(日立市) 焦土「思い出も灰に」 攻撃3度、恐怖に震え

3度の大規模空襲や艦砲射撃の経験を語る大越ハルエさん=日立市内
3度の大規模空襲や艦砲射撃の経験を語る大越ハルエさん=日立市内
大越ハルエさんが夫婦で手入れをしてきた「嗚呼勤労学徒殉難碑」=日立市助川町
大越ハルエさんが夫婦で手入れをしてきた「嗚呼勤労学徒殉難碑」=日立市助川町


1945年6月10日。その日は青空だった。茨城県日立市内は警報が出ていたものの、慣れていたため、当時16歳だった大越ハルエさん(96)は、畑の周りのお茶摘みをしようと母や姉と庭に出た。

かすかに爆音が聞こえた。そう思う間もなく、南の空から白い輝きがみるみる近づいた。地鳴りのするごう音。「すごい数のB29だ」。銀片のようなものが光りながら落ちた。

「爆弾だー」。土間に飛び込むとすぐ、耳をつんざくような音と地響きがした。ズシン、ドドーン、ガガーン。ただ地面に伏して耳をふさいで震えていた。

空襲は午前8時56分から9時半まで4波にわたり続いた。静かになって、外に出てみると、神社の森の先にある日立製作所海岸工場の方から黒煙が上がり、時々爆発。火柱も見えた。

「大変だ。兄さんが工場にいる」。従業員だった兄を思い、家族はぼうぜんとした。「工場の防空壕(ごう)がつぶされた」と聞き、様子を見に行っても工場にはとても近づけなかった。

夕方、兄が無事だと知り、ほっとした。だが戻った兄の話は想像を絶した。兄は爆撃の合間を縫って三つの防空壕を逃げ惑った。一部は爆弾でつぶされ、何十人もが生き埋めに。燃え盛る工場から「助けてー」という声が聞こえた。救助に当たるも、土砂に埋もれた穴を掘るのは困難を極めた。遺体を運び出し、地獄を見る思いだったという。

7月17日夜は大雨だった。物音とともに夜空が昼間のように明るくなった。大越さんは「大変だ。防空壕へ」と叫び、家族8人で転がり込んだ。艦砲射撃の砲弾が大音響で襲ってきた。大木が倒れ、土砂が流れ込む。「今死ぬか、今死ぬか」。恐怖におののいた。

2日後の焼夷(しょうい)弾攻撃では、母校の日立高等女学校が全焼した。3回の攻撃で女学校の先生や友人の家族らが亡くなった。

戦後は小学校教員を21年間務め、子どもたちを戦跡に連れて行くこともあった。近年は日立二高(旧日立高女)に出向き、生徒に戦争体験を語ってきた。

艦砲射撃による茨城師範学校生の死者を悼む「嗚呼勤労学徒殉難碑」(同市助川町)には、同校出身の夫(故人)と共に毎年清掃や慰霊を続けてきた。

青春時代は戦争の暗い影の中にあった。焼け野原となった街と同じように「思い出も灰になってしまったような深く悲しい気持ち」を覚えた。

「それでも」と言葉を継ぐ。「世界中の人が信念と自信を持ち、平和で希望ある日々が長く続くことを祈っている」

★日立市の戦災

1945年6月10日の空襲は、100機を超える米軍機B29から806発もの1トン爆弾攻撃を受け、日立製作所海岸工場や周辺住宅で886人が死亡。7月17~18日の艦砲射撃は米艦隊16隻が工場群に砲撃を加えた。同19日の焼夷弾攻撃は127機のB29が1万発超の爆弾を無差別投下し、市街地の6割以上が焼失。被害は市外にも及んだ。一連の攻撃で死者は1500人を超えた。



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