次の記事:《広角レンズ》「記名式ごみ袋」見直しへ 採用の茨城県内10市 個人情報保護、揺れる運用 

《いばらき戦後80年 証言》広島で被爆 森淳さん 87 (つくば市) 二度と使ってはならぬ 原爆、優しい祖父奪う

原子爆弾が広島に投下された朝のことを振り返る森淳さん=つくば市大井
原子爆弾が広島に投下された朝のことを振り返る森淳さん=つくば市大井
県内の被爆者健康手帳所有者数の推移
県内の被爆者健康手帳所有者数の推移


真っ黒に焼けただれた遺体が布団の上に横たわっていた。顔を見ても、誰だか分からなかった。

遺体は常に自分を気にかけてくれた祖父だった。両親は7歳だった森淳さん(87)=茨城県つくば市=を気遣い、火葬の直前まで変わり果てた祖父の姿を見せなかった。祖父を前にして「何も言えなかった」。ただただ手を合わせ、火葬場に運ばれるのを見送った。

8月6日午前8時15分。米軍は世界で初めて原子爆弾を投下した。広島の市街地が焦土と化した。

森さんは爆心地から約4キロ離れた海岸に妹といた。原爆は山向こうに落ち、「雷が落ちたようなものすごい音がした」。爆風が襲ってきて、海で遊んでいた人たちの服を吹き飛ばした。

間もなく、よく晴れた青い空に黒くて大きなキノコ雲が浮かび上がった。母が2人を見つけてくれて防空壕(ごう)に避難したが、1時間ほどたったその時もまだ、不気味なキノコ雲は空に残っていた。

原爆が優しかった祖父を奪った。祖父は兄ばかりかわいがる母に「淳のことももうちょっと大事にしてくれ」と声をかけてくれた。父が焼け野原となった市街地まで行って祖父を探し回った。5日後に見つけて家に連れ帰ったものの、8月末に息を引き取った。

いつも遊んでいた海辺の景色も一変した。連日、兵隊が来ては浜で遺体を焼いた。亡くなった人があまりに多く、火葬場が足りなかった。「こういうところで人を焼かないといけないのか」。なんとも言えない気持ちになった。

自身の体にも異変が現れた。中学生くらいまで「夏場は体がつらかった」。

あれから80年。自分たち被爆者も年を取った。県内の被爆者でつくる県原爆被爆者協議会で副会長を務めるが、活動が止まってしまった。

「原爆で大勢の罪なき人々が亡くなったという事実が消えてしまう」

活動できなくなると気持ちに変化が訪れた。「良い話ではないし」と娘や孫にでさえ話したことはなかった被爆体験。「まだ時間はあるし、体も動く」。伝えていくことを決心した。

この間、新たな関係も築いてきた。近所に引っ越してきた米国人と友達になった。その母親に「アメリカを恨んでないか」と尋ねられたが、「戦争では正常な心を失ってしまうもの。恨んでない」と答えた。

恨みの連鎖は戦争の種になる。「原爆は二度と絶対に使われてはいけない。戦争もいけない」。平和を願い、被爆の記憶を継ごうと、もがき始めた。

★県原爆被爆者協議会

「二度と子や孫たちの上に繰り返させまい」「生きている限りあの実相を語りついでいこう」を合言葉に1975年2月設立。被爆者を対象にした保健所の定期健診を通じて結ばれた「友の会」の有志が結成を呼びかけた。被爆者への差別を心配し表立った活動を控えていたが、80年代の冷戦下で米ソが急速な核軍拡を進める中、語り部や写真展などの活動を始めた。



最近の記事

茨城の求人情報