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《いばらき戦後80年》出兵、死の淵さまよう 過酷な経験紹介 吉田正音楽記念館で企画展 日立

企画展「吉田正と戦争」には写真や資料が展示されている=日立市宮田町
企画展「吉田正と戦争」には写真や資料が展示されている=日立市宮田町
ピアノを弾く吉田正さん(吉田正音楽記念館提供)
ピアノを弾く吉田正さん(吉田正音楽記念館提供)
満州の病院で手術を受け入院、療養していた頃の吉田正さん(右から2人目)(吉田正音楽記念館提供)
満州の病院で手術を受け入院、療養していた頃の吉田正さん(右から2人目)(吉田正音楽記念館提供)


「潮来笠」「いつでも夢を」など昭和の名曲で知られる茨城県日立市出身の作曲家、吉田正さん(1921~98年)。満州に出征し、病気やシベリア抑留といった過酷な経験をした。日立の戦災では親族6人が死亡。戦時中から作曲を始め、その後大活躍した。同市宮田町の吉田正音楽記念館で開かれている企画展「吉田正と戦争」は、資料を通じて音楽を愛した生涯や平和への願いを振り返っている。

吉田さんは21歳で、徴兵により水戸陸軍歩兵第二連隊に入隊。満州に駐留した。病気や戦闘で何度も死の淵をさまよった。重症だったため南方戦線には送られなかったが、終戦後に部隊がソ連軍に拘束された。寒さ、飢え、重労働に苦しみながらシベリア各地を転々として、抑留は3年に及んだ。

帰還後には、父や兄ら親族6人の死亡を知った。45年7月19日の米軍による焼夷弾(しょういだん)攻撃で、防空壕(ごう)が崩れたためだった。

満州では30曲を作り、仲間と歌ったものの、検査で楽譜を書いたメモを持ち帰れずやむなく焼却。その中に「昨日も今日も」、後のヒット曲「異国の丘」があった。戦地で望郷の念を込めた歌について、本人は「私の全曲でただ一つ、絶叫する歌」と書籍でつづった。

戦後はビクター専属で目覚ましい活躍を遂げる。フランク永井や橋幸夫、吉永小百合ら門下生に楽曲を提供。生涯作った曲は2400曲と膨大だった。

展示では、東京・新宿の「帰還者たちの記憶ミュージアム」の協力を得て、シベリア抑留関連の資料を展示。記念館の写真やパネル資料と合わせて93点を並べた。

市文化・国際課の鈴木亨課長は「吉田さんの体験した戦争や生涯を通じて、平和を考える機会にしてほしい」と語った。

10月26日まで。月曜休館。入場無料。



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