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《いばらき戦後80年》戦時利用「幻の駅」 筑西・常総線「野殿停留場」 近くに陸軍飛行場 記憶の継承訴え

野殿停留場があったとされる場所を指す十文字義之さん=筑西市野殿
野殿停留場があったとされる場所を指す十文字義之さん=筑西市野殿


太平洋戦争中に軍人が利用し、終戦とともに姿を消した「幻の駅」がある。常総線黒子-大田郷駅間に存在した「野殿停留場」(現茨城県筑西市)。終戦間際に特攻隊が送り出された陸軍下館飛行場の近くに位置し、「飛行場前停留場」とも呼ばれた。当時を知る地域住民が減少する中、下館飛行場と共に、記憶の継承の重要性が高まっている。

関東鉄道常総線の野殿踏切(同市野殿)。その北側にあった野殿停留場の痕跡は、今や見当たらない。

「仮停車場の呼び名で、家族から教わった」。そう語るのは「筑西市郷土史を考える会」の元会長で、同所の杉山雅信さん(84)。ホームは土盛りをしただけの簡易な構造で、停留場前の道路は軍用道路と呼ばれたという。

この「軍道」を西に700メートルほど進むと、下館飛行場の東正門にたどり着いた。終戦後、停留場のホームでチャンバラごっこをしたことも覚えている。

「教官や助教の下士官は下館の旅館に宿泊して、常総線を利用して、仮停車場から飛行場に通っていたそう」と杉山さん。戦後80年がたち「駅があったことを再認識してもらうことは大事だ」と思いを口にする。

関東鉄道70年史によると、野殿停留場は1938年12月1日に開業した。国立公文書館の所蔵資料を見ると、野殿停留場があった地点でこの頃、飛行場前停留場の新設届が出されている。理由書には「陸軍飛行場新設さるるにより右に往来する客の便を計るためなり」とある。

終戦後に出された野殿停留場の営業休止届も確認できる。45年9月10日から休止し、それを52年9月10日まで延期する内容で「(戦時中)軍人軍属のみの取り扱いにして終戦後はその必要なきため」ともある。

関東鉄道の活性化を図る「関鉄レールファンCLUB」名誉会長で、野殿停留場を40年以上調べている十文字義之さん(60)は「飛行場に関わっていた人が乗り降りしていた。飛行場にとって重要性は高かった」と説明。「戦時関係の一施設」として、記憶の継承の重要性を訴える。

★下館飛行場

1939年、熊谷陸軍飛行学校の分教場として建設された。その後、宇都宮陸軍飛行学校の分校となり、少年飛行兵の訓練場の役割を担った。やがて四式戦闘機「疾風」(はやて)が配備され、太平洋戦争末期に特攻隊が送り出された。終戦後、開拓地となった。



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