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村山元首相死去 「懐深く温厚、実直」 茨城県議員ら人柄しのぶ

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村山富市元首相が17日、101歳で死去した。政界で交流のあった茨城県の現職・元国会議員らは、村山氏のおおらかで実直な人柄を懐かしみ、功績をたたえて悼んだ。

「おおらかな性格で、包容力のある人。社会党の左右両派をまとめ、一つの時代をつくった」

社会党時代に村山内閣で通産政務次官を務め、民主党政権で国土交通相などを歴任した大畠章宏氏(78)は、村山元首相の死を悼んだ。

大畠氏は自民の金権政治打破を目指し活動していた若手の頃、1994年の自社さ連立政権発足の流れに反発。首班指名で村山氏ではなく、元首相の海部俊樹氏の名前を書いた。それでも翌95年の内閣改造で村山氏が、自身を通産政務次官に任命し「懐の深さに驚いた」。

村山氏の功績として戦後50年談話を挙げ、「自民政権では絶対に出せないものだった。その後の政権も踏襲しており、高く評価されるべき」と強調した。

弁護士の種田誠氏(80)は89年の参院選茨城選挙区に社会党から出馬し、当選。党内で村山氏を首相にするかでもめ、首班指名で棄権したといい、「だからといって村山さんは冷遇しなかった」と温厚な人柄を振り返った。

自民、共産を除く政党や会派で発足した94年の羽田政権で運輸大臣を務めた二見伸明氏(90)も「人をけなしたりせず、非常に『いい人』だった」と懐古。孫同士が同級生で「顔を合わせると政局の話はあまりせず、孫の話題で盛り上がった」。

羽田氏退陣後、自社さ連立政権の誕生で首相に就いた村山氏は、所信表明演説で日米安全保障条約の堅持を表明。これまで反対してきた社会党の方針を大きく転換した。

直後の予算委員会で質問に立った二見氏は、方針転換を批判した半面、「村山さんが困ると思ったら、強く糾弾できなかった」。その日の夜、村山氏からは「手を緩めていただいて、ありがとう」と連絡があったといい、「実直な人だった」としのんだ。

■「偉大な功績残した」 自民議員も別れ惜しむ

「野党の現実路線化に貢献した政治家の一人だった」。額賀福志郎衆院議長=自民党=は村山元首相の訃報に接し、功績をたたえた。

額賀氏は1983~2000年まで国会議員として共に働いており、村山氏が自社さ連立内閣を率いたことを回想。「それまで反対してきた自衛隊合憲や日米安保条約容認に踏み切ったことはさすがだった」としのんだ。

自民党の梶山弘志国対委員長は「党派や思想は違えど、総理としても政治家としても偉大な功績を残された方」と、神妙な面持ちで話した。

梶山氏の父で元官房長官の静六氏と村山氏は、党派を超えて信頼関係を築いた。両氏は自民党と社会党の国対委員長同士だった際に「梶山・村山ライン」と称された。梶山氏は「当時は夫人同伴の会合があったようで、父からも母からも村山元総理の話を聞き、尊敬していた」と悼んだ。



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