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《いばらき戦後80年》ウォーナーの半生に光 県五浦美術館で企画展 天心ゆかりの美術史家

ラングドン・ウォーナーの肖像写真(部分)=1908年、県天心記念五浦美術館蔵
ラングドン・ウォーナーの肖像写真(部分)=1908年、県天心記念五浦美術館蔵
ラングドン・ウォーナーが新納忠之介に宛てた書簡=1945年12月28日、県天心記念五浦美術館蔵
ラングドン・ウォーナーが新納忠之介に宛てた書簡=1945年12月28日、県天心記念五浦美術館蔵


■「文化財保護」国超え継承

岡倉天心(覚三)の薫陶を得て、日本文化に深い関わりを持った米国の東洋美術史家、ラングドン・ウォーナー(1881~1955年)。茨城県天心記念五浦美術館(同県北茨城市大津町)では、戦後80年企画として、戦時中に日本の文化財保護に寄与したウォーナーの半生をひもとく展示を行っている。天心らとのゆかりを記す書簡類は、文化財保護の精神が国を超え継承された歴史を伝えている。

ウォーナーは1903年にハーバード大を卒業後、ボストン美術館で中国・日本美術部長を務めていた天心の助手となる。06年には同美術館の研修候補生として日本に派遣され、滞在中に天心を訪問。再来日した際には、仏像修復に生涯を捧げた彫刻家、新納忠之介を天心から紹介され、新納の奈良の自宅で家族と約1年間生活を共にし仏像の様式などを実地で学んだ。

時代は下り、太平洋戦争が激化した43年、米国では敵国地域の文化財保護を目的とした委員会が設立。ウォーナーは、その極東部主任を務め、日本全国の重要な寺社仏閣などのリスト、いわゆる「ウォーナーリスト」を作成した。

戦後になって、日本では「奈良や京都が爆撃から免れたのはウォーナーの働きがあったため」とされ、ウォーナー自身が否定したにもかかわらず、日本各地で顕彰運動が起こった。誤解の背景には、ウォーナーが天心の薫陶を得て日本と深い関わりをもち、米国で東洋美術研究の第一人者だったことが影響しているともいわれている。

戦後80年に合わせた本展示では、ウォーナーの肖像写真とともに、ウォーナーへの指導を天心が新納に依頼した書簡や、戦後にウォーナーがリスト作成に対する率直な心境を新納宛てにつづった書簡などを紹介。後者の文面でウォーナーは「奈良や京都が爆撃から免れたのはアメリカ空軍の施策だった」と記載。一方で「もしリストが役立ったのなら、それはあなた(新納)のご教示の賜物です」と新納に対し感謝の思いを述べている。

同館学芸補助員の宮本夢花(ゆめか)さんは「戦時中にもかかわらず、文化財保護の精神が国を超えて受け継がれていたことを知ってもらえれば」と話している。展示は11月3日まで。



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