茂木貞夫さん死去 広島被爆 茨城で語り部 戦争なき世界、信念託す
広島で被爆し、茨城県内で語り部として戦争や核兵器の恐ろしさを訴えてきた県原爆被爆者協議会会長代理の茂木貞夫さん=同県水戸市=が3日、92歳で死去した。「隠せるものならば隠したかった」。つらい記憶を封印してきた茂木さんは、故郷の恩師やほかの語り部に背中を押され、定年退職してから晩年まで小中学校などで語り部を続けた。核兵器や戦争なき世界を願う茂木さんの信念は、交流した朗読団体や残る被爆者に託され、それぞれ原爆の恐ろしさを伝え続ける決意を新たにした。
茂木さんは小学生だった1945年8月6日、広島の爆心地から約1.3キロ地点で被爆。塀の下敷きになり、やっとの思いで抜け出た。隣にいた友人は見当たらない。火から逃げ、無数の遺体が流れる川を泳いで帰宅。顔や腕に大やけどを負った。
「君はこの原爆の恐ろしさを茨城の人に伝えろ」。治療が終わり、家族とともに広島から茨城県潮来市に引っ越す直前、小学校の恩師に託された。ただ、思い出すのはつらかった。茂木さんの家族によると、成人後、被爆者同士で交流することはあっても、会社や家で話すことはなかったという。
転機は約10年前。茨城大の学生が、茂木さんの体験を基にした紙芝居を制作した。卒業間近の学生から読み手を託された見沢淑恵さん(52)が、朗読団体「オリーブ協会」の前身となる団体を設立。茂木さんは、語り部だったほかの被爆者に背中を押されたこともあり、本格的に語り部活動を始め、見沢さんらとともに小中学校に出向いた。高校や鑑別所でも講演した。
「原爆の恐ろしさを伝えるのが、生き残った僕の役目」。見沢さんは、茂木さんの言葉を忘れられない。茂木さんの家族は「講演を聞いた子どもらにもらった手紙を、家でうれしそうに読み返していた」と懐かしむ。
見沢さんらの朗読は、茂木さんとの交流で深みを増していった。「もういくらも話せないから、後は頼んだね」。茂木さんからそう言われるまでになった。見沢さんは「誰かがほかの誰かに、原爆の恐ろしさを伝えていく。そんな状態が少しでも長く続くようにしたい」と先を見据える。
茂木さんに刺激を受け、語り部の活動に関心を持ち始めた人もいる。同じく広島で被爆した森淳さん(87)=茨城県つくば市=は、第一歩として、自身の被爆体験をまとめ始めた。
「原爆被害を絶対に忘れてはならない」と森さん。それぞれが茂木さんの遺志を継ぎ、被爆者の記憶を次世代につなげていく。











