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《連載:防災いばらき 未来へつなぐ 3.11震災15年》第1部(5) 北茨城・復興住宅 伊藤晴江さん

住民が交流する機会をつくろうと、ひな飾りを準備する伊藤晴江さん=北茨城市大津町
住民が交流する機会をつくろうと、ひな飾りを準備する伊藤晴江さん=北茨城市大津町
津波で多くの家屋が被災し、がれきが散乱する町並み=2011年3月15日、北茨城市大津町
津波で多くの家屋が被災し、がれきが散乱する町並み=2011年3月15日、北茨城市大津町


■孤独死の防止へ絆つむぐ おせっかいでも最後のとりでになりたい

「仲間がいると心が和らぐ。今でもサークルに参加したい」

2011年3月11日、茨城県北茨城市大津町の伊藤晴江さん(64)は自宅に津波が押し寄せ、安らげる場を失った。

午後2時46分、緊急地震速報が鳴り、直後に大きな揺れに襲われた。車で福島県いわき市に買い物に行った帰り道だった。急いで娘と生後6カ月の孫がいる自宅に向かった。

走り慣れた海岸沿いの国道6号は擦れ違う車がなかった。車窓から、たくさんの船が一斉に沖に出て行く異様な光景が目に入った。

家に着くと、仕事で都内にいた夫から「津波が来る」と電話があった。高台の北茨城市立大津小に避難し、娘と孫に合流した。夫も駆け付けた。家族の無事を確認して涙がこぼれた。

翌日、自宅に戻ってみると、あまりの惨状に目を疑った。1階は窓ガラスが1枚もなく、タンスに海水と泥がたまっていた。「どうすればいいの」。片付けを始めたものの途方に暮れた。解体を余儀なくされた。

避難所を出て、市内の寺や弟の家などを転々とした。4月には北茨城市中郷町の雇用促進住宅に入居できた。被災して自宅に住めなくなった約100世帯が集まった。見知らぬ顔ばかりの生活で、1人暮らしの高齢者も多かったため、有志で声かけ運動を始めた。

これを機に仲間と行動に移した。集会所を拠点に交流を深める「北茨城あすなろ会」を立ち上げた。毎日のように茶会を開き、独居の高齢者らに食事を提供したり、文化教室や夏祭りを開いたりした。顔を見せない人がいれば、部屋を訪ねて様子を見に行った。

被災者たちの新たなコミュニティーができた。「弱音を吐いたっていい。みんなが助けてくれるから」。活動するにつれ、気持ちが前向きになった。

14年6月、完成した災害公営住宅の一つ「大津復興住宅」に引っ越した。

市はコミニティーづくりのため、同住宅の全3棟に集会室を設けた。「顔なじみのメンバーは別の住宅に移った」ため再出発となった。自身の棟では年1回ある総会にも参加しない人がいて、新天地でのコミニティーづくりは難しかった。

「他の棟では孤独死もあった」。あすなろ会に通っていた女性が数年前に亡くなった。発見時、死後3日たっていたという。「もし(棟の垣根を越えた)会があったら」と悔やむ。

同じ棟に住む高齢者らへ声かけは欠かさない。「何か(困ったことが)あったら言って」。電化製品の使い方を教えたり、物音がしない部屋があると訪ねてみたりした。

入居から10年以上がたつ。住民は高齢化して交流がいっそう減る一方で新たな一般住民が増えたため人をつなぐ試みを始めた。「交流が増えるように」と、3月のひな祭りに向け、飾りを集会室に用意した。

「おせっかいかもしれないけど、最後のとりでになりたい」

経験を糧に絆をつむぐ。(第1部おわり)



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