《東日本大震災15年》故人の記憶を胸に 遺品のカメラ、兄しのぶ 北茨城・平塚さん
東日本大震災の発生から11日で15年を迎えた。茨城県内の遺族や被災者などは故人や当時の記憶を胸に「供養を続けたい」「地元に元気を」などと決意を語った。
「年中写真を撮っていた兄貴を思い出す」。茨城県北茨城市磯原町の平塚信次さん(87)は、津波で亡くなった兄、幸男さん=当時(80)=の唯一の遺品となったカメラを見つめた。
東日本大震災で同市は震度6弱の揺れと最大6.7メートルの津波に見舞われた。出先にいた信次さんは市役所に避難したが、兄のことが気がかりだった。
「亡くなったかもしれない」。自宅に戻ると、夜中に訪ねてきた市職員から兄の状況を告げられ、頭が真っ白になった。
翌日から妻の桂子さん(85)、姉との3人で捜索を開始。市役所や消防署、病院などを回り、遺体が高萩署にあることを知った。「(死は)予想もしていなかった」とがくぜんとしながら、遺体を引き取った。
同じ地域の沿岸部に住んでいた幸男さんは、津波から逃げ遅れていたところを救助されたが、搬送先の病院で亡くなった。
幸男さんは幼少期に病気を患い、左半身が不自由だった。それでも、信次さん宅の稲作や子どもの送迎を手伝うなど「できる作業は何でもやってくれ、気持ちの良い性格だった」。趣味は写真と旅行で、友人やきょうだいで出かけた際は率先して撮影してくれた。
数多くの思い出を刻んだカメラは、偶然にも信次さんの元へ届いた。震災発生の約1週間後、幸男さんが救助された場所の付近で、おいが防水ボックスに入ったカメラを発見した。
住まいは津波で流されただけに、大切にしていた遺品の発見は「不思議」。現在は自身のカメラを一緒に入れて、形見として保管している。
10日には、桂子さんと共に兄の墓参りをした。毎年、供える花は変わらず、自宅に咲くスイセン。葬儀の際に生花がなく、手向けた思い出の花だ。
「良い兄貴だった。少しでも長生きして供養し続けたい」。兄を思う気持ちは15年たっても変わらない。
■「地元に元気与えたい」 茨城・大洗出身 J1水戸・上山さん活躍誓う
「被災した地元に元気を与えたい」。茨城県大洗町出身でサッカーJ1・水戸ホーリーホックに所属するプロ1年目のGK、上山海翔(みなと)さん(18)は活躍を誓う。
漁師の両親に生まれ、東日本大震災時は3歳だった。強く記憶に残ったのは、津波で船が陸に揚げられるのを避けようと海へ出た父の姿。「状況をよく理解していなかったが、お父さんが亡くなる気がしてたくさん泣いた」
震災がサッカーとの縁を結んだ。町民が招待されたホーリーホックの復興支援試合を観戦し、そこでGKの本間幸司さん=現クラブGM=の「ボールを止める姿、チームを鼓舞する姿にひかれた」。その後、下部の育成組織に所属し、GKとして初のトップチーム昇格を果たした。
1月に左小指関節を脱臼しリハビリに努めていたが、11日に装具が外れた。ここからは状態を上げ、再びチーム内競争に加わる。
復興に向かっていく町、両親の姿を見て育ち「大洗の人たちには、自分を元気に育ててもらった恩がある」。感謝の思いを胸に、プロ選手としての飛躍を目指す。











