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坂本九さんの心、歌い継ぐ 日航機墜落39年 長女の大島花子さん 今も「一番つらい日」 茨城にゆかり

父の坂本九さんの墓前に花を手向ける大島花子さん=都内
父の坂本九さんの墓前に花を手向ける大島花子さん=都内
父の坂本九さんに抱きかかえられる大島花子さん(当時2歳、本人提供)
父の坂本九さんに抱きかかえられる大島花子さん(当時2歳、本人提供)


1985年8月に起きた日航ジャンボ機墜落事故から間もなく39年を迎える。事故で命を落とした茨城県ゆかりの国民的歌手、故・坂本九さんの長女で歌手の大島花子さん(50)は事故があった12日を「人生で一番つらい日」と語り、今も父を亡くした悲しみと向き合いながら、歌を通して命の尊さを伝え続ける。

■嫌な予感的中
大島さんは当時小学6年。「その日」は、最後の夏休みを楽しもうと、俳優で母の柏木由紀子さん(76)らと京都旅行の準備を進めているところだった。

「飛行機がレーダーから消失した」。テレビ画面に速報が出た時、嫌な予感がした。「まさか違うよねって。信じたくなかった」。不安は的中した。

事故後は軽井沢の知人宅に預けられ、父の帰りを待った。売店で見かけた週刊誌の表紙には「坂本九 死す」の文字。程なくして母から「東京に帰ろう」と連絡があり全てを悟った。「パパ、いなくなっちゃったんだ」

玄関で見送った父が「ただいま」と家に帰ってくる日常は消え、母の帰宅が遅くなると事故を思い出して不安が募った。「生きることが怖くなったんだと思う」。事故後、家族の会話に父の話題が上ることはなくなった。

■自作の歌贈る
坂本さんは母の実家がある茨城県笠間市で幼少期を過ごした。「祖母との思い出は特別だったと思う」。家族で笠間焼の制作も楽しみ、工房で取った手形は、今も宝物だ。

父としての姿は子どもたちのリーダー。「全力で遊び、飛び切りの笑顔を見せてくれた」。家族の記念日には、自作の歌を贈り合った。

大島さんはその後、両親と同じ居場所を求めて芸能の世界へ。ミュージカルにも挑戦したが、「役にとらわれない自分を表現したい」と作曲やライブ活動を続けた。大学卒業後も活動を続け、2003年にデビューを果たした。

自身がつくる歌は、命の大切さや生きる尊さがテーマ。聴く人たちに寄り添い、会話を重ねながら歌に込めたメッセージを届けるよう心がける。20周年の節目となる今年9月には、茨城県でもライブを開く予定だ。

■墓前に相談
大島さんは「長い間、悲しみは乗り越えなければ」と感じていたが、11年3月に起きた東日本大震災で考えが変わった。

被災地で出合ったのは、死別を経験した人々に寄り添う「グリーフケア」。悲しみとの向き合い方を知り、今では「簡単に忘れられなくて当然。悲しみをなくさず、認めることが大切」と思えるようになった。

迷った時には今も父の墓を訪れる。「パパだったら、どんな公演にする?」。墓前で悩みを打ち明けると、不思議と心が晴れるという。

人を楽しませることが大好きだった父は「誰もが楽しめる音楽を届けたいという思いが強くあった」。自身と父の思いをメロディーに乗せ、悲しみうつむく人々のためにこれからも歌い続けるつもりだ。

★日航ジャンボ機墜落事故
1985年8月12日午後6時56分、羽田発大阪行き日航123便ジャンボ機(ボーイング747)が群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」に墜落。乗客乗員524人のうち520人が死亡した。87年、当時の運輸省航空事故調査委員会は、墜落機が78年に尻もち事故を起こした際の修理で米ボーイング社側にミスがあり、日航と同省の担当者も見逃したのが原因とした。



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