【論説】水俣病対話マイク切断 単なる謝罪で済まされない

水俣病の被害者側と伊藤信太郎環境相の懇談で、環境省が被害者団体側のマイクの音を切って発言を阻んだことを認め、環境相は急きょ現地入りして直接謝罪した。

だが、これは通り一遍の謝罪で済む問題ではない。環境行政の原点である公害問題の重大性や、弱者の声に耳を傾けることへの重要性についての認識が、今の環境省の中で薄れていることの表れと言えるからだ。

今回の事態は、環境省側と患者団体の代表者などが対話をする懇談会の場で起こった。環境省の担当者は、自らが勝手に設定した発言時間の3分を超過したことを理由に、発言者のマイクの音量を絞り、取り上げた。

「痛いよ、痛いよといって死んでいきました」と亡き妻の姿を訴える参加者の発言を中途で阻むという暴挙は、当たり前の耳と心を持つ人間ならできないことだ。環境省の中で懇談が形骸化し、そもそも患者団体の意見を受け止める意思などなかったと言われても反論の余地はないだろう。

水俣病など1960~70年代に深刻化した公害問題が、当時の環境庁発足のきっかけとなり、長く、環境行政上の主要課題とされた。その後、地球温暖化やオゾン層破壊といった地球環境問題が深刻化して、それらへの対応に環境行政の重点はシフトしていった。

その中で「原点」だったはずの公害行政の重要度は相対的に低下。水俣病などへの職員の関心が薄れ、現場経験も減ったことを指摘する識者は少なくない。

だが、公式発見から70年近くたっても水俣病問題は未解決だ。光化学スモッグなど改善が見られない汚染も多い。

気候変動や化学物質汚染などで最初に大きな被害を受けるのは、社会的な弱者や貧困層だ。弱者の訴えに耳を傾け、立場の弱い人々の命と生活を守ることが環境行政の最大の目標であることは今も昔も変わらない。

映像を見れば発言中にマイクが切られたことは明白なのに「私はマイクを切ったことを認識しておりません」と述べ、早々に退席したのが環境相だ。後日になって「水俣病は環境省が生まれた原点」と言った言葉を額面通り受け入れることは難しい。同席した木村敬熊本県知事の「運営(方法)自体は見直されるべきだ」との発言にも当事者意識が感じられない。

国と熊本県は、早急に懇談を再設定し、関係者の声に耳を傾けるべきだ。環境省には、職員の教育体制の見直しなどを通じて意識改革を進めるという、より根本的な対応も求められる。

そして、伊藤環境相と環境省には、水俣病の全面解決というさらに大きな課題が突き付けられていることも忘れてはならない。現行の水俣病特別措置法で救済されなかった未認定患者による訴訟で、昨年の大阪地裁、今年に入っての熊本地裁と新潟地裁と、原告を患者と認める判決が相次いだ。国の認定基準は司法によって繰り返し否定されている。

市民の信頼なしに、人々の暮らしと命を環境破壊から守る行政など実現できるはずがない。

今回の事態の反省に立ち、弱者の声に耳を傾ける姿勢を明確にすること。過去の行政へのこだわりを捨てて水俣病の全面解決に進むこと。この二つなしに、失墜した環境行政への信頼は回復できないだろう。