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慶喜の人物像再考 県立歴史館、22日まで特別展

「新聞記事 大坂城に大君を訪問するパークス卿(『ザ・イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』より)」(大阪城天守閣蔵)
「新聞記事 大坂城に大君を訪問するパークス卿(『ザ・イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』より)」(大阪城天守閣蔵)
1866〜67(慶応2〜3)年のころとみられる、徳川慶喜の座像。洋装で刀を手にしている(県立歴史館蔵)
1866〜67(慶応2〜3)年のころとみられる、徳川慶喜の座像。洋装で刀を手にしている(県立歴史館蔵)


「正統なる英雄(カリスマ)か、偉才の異端児(アウトサイダー)か」-。江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜の行動と歴史的な役割について再考する特別展が、水戸市緑町2丁目の県立歴史館で開かれている。同館で慶喜を取り上げるのは17年ぶり。192点の資料で慶喜の人物像を掘り下げていく。併せて、水戸藩とのつながりや慶喜の開明性にも注目。同館の由波俊幸学芸員は「慶喜は強烈な個性を持った人。最新の研究成果を踏まえつつ、幕末という時代を紹介したい」と話している。22日まで。会期中、展示替えあり。


慶喜は1837(天保8)年、御三家の一つである水戸藩主、徳川斉昭の七男として生まれた。母は有栖川宮家の出身で、天皇家と徳川家双方の血を受け継いだ慶喜は周囲の期待を受け、政局の中心で幕政改革を進める。江戸開場の道を開いてからは政治的な沈黙を貫き、晩年は趣味に生きた。

同展は全6章。第1章は水戸とのつながりに焦点を置き、幼少期の慶喜の書や、父・斉昭の関連資料などが並ぶ。慶喜は7歳から水戸の弘道館で教育を受けた。「水戸学は思想の過激さが強調されがちだが、当時の最先端の学問であり、慶喜の対外認識の下地になっていると考える。慶喜研究に水戸藩を結び付ける、一端となれば」と由波さん。弘道館ゆかりの資料、青山延于(のぶゆき)「皇朝史略」や会沢正志斎「新論」も展示されている。

山内勝春の「徳川斉昭肖像」は実像に近いとされる肖像画で、関東地方での公開は初めて。斉昭所有の太刀「桜花文(おうかもん)兵庫鎖(ひょうごぐさり)太刀拵(たちごしらえ)」は水戸の金工の作と伝えられ、さやには豪華な桜花文と、斉昭の和歌が刻まれている。

2〜3章は慶喜が将軍候補に躍り出て、京都で活躍する時期を紹介。文書資料やびょうぶなどが並ぶ。倒幕派と衝突した「禁門の変」を描いた錦絵では、馬にまたがって兵を従える、堂々とした姿が描かれている。慶喜は故郷の水戸藩から助力を仰いでおり、在京中の慶喜を支えた本圀寺(ほんこくじ)党(とう)、天狗党にも触れている。

4章は慶喜の開明的な一面がうかがえる。当時、江戸幕府とフランスは親密な交流があった。フランス製のよろい、かぶとは皇帝・ナポレオン3世から贈られたという。由波さんは「(慶喜は)常に海外に目を向け、日本に取り入れようとしていた」と分析。また、幕府と敵対関係にあったイギリスの外交官、パークスが、慶喜について「彼の統治能力には疑う余地はない」と絶賛する新聞記事も並び、慶喜の対外的な評価の一端が示されている。

5〜6章は幕府の衰退や慶喜の引退後を紹介。「王政復古の大号令」が発せられた夜の様子を描いた国宝「岩倉具視伝記絵図 小御所会議之図」、慶喜の処遇をめぐる国指定重要文化財の書簡「西郷隆盛書簡 大久保利通宛」などによって、激動の時代を描き出す。「30代で隠居した若者が、時代とどう奮闘したのか見てもらいたい」との意図も込め、慶喜が晩年没頭した写真や絵画も多数紹介している。

その他、孝明天皇、天璋院篤姫など同時代を生きた人々の関連資料や、華やかな装飾品など、時代を彩る美術工芸品の数々も見どころだ。

由波さんは「従来の研究では、慶喜は“追い詰められて”政権を返した、とされていた。しかし近年“自ら”奉還したとの見方もなされ、慶喜の再評価が進んでいる」としている。

問い合わせは同館(電)029(225)4425

(安ケ平絵梨)



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