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常総学院高野球部 木内幸男前監督インタビュー(上)

インタビューを終え試合を観戦する木内幸男さん=7日、土浦市川口の土浦市営球場、菊地克仁撮影
インタビューを終え試合を観戦する木内幸男さん=7日、土浦市川口の土浦市営球場、菊地克仁撮影
取手二高を率いて全国高校選手権大会で優勝を成し遂げ、宿舎で選手らとあらためて優勝を喜ぶ=1984年8月21日
取手二高を率いて全国高校選手権大会で優勝を成し遂げ、宿舎で選手らとあらためて優勝を喜ぶ=1984年8月21日


第97回全国高校野球選手権茨城大会が7月4日に開幕する。かつて取手二高、常総学院高を率いた木内幸男氏(83)は甲子園通算40勝、春夏合わせて3度優勝し、半世紀以上も第一線に立ち続けた。1915年に大阪府で「第1回全国中等学校優勝野球大会」(現全国高校選手権大会)が開催されて今年で百年。本県の高校野球を象徴する名将に、「木内マジック」と称された采配の裏側や高校野球への思いなどについて聞いた。 (運動部・岡田恭平)


-監督の理論で参考にした人、ものは。

全部参考にする。プロ野球も、学童野球を見ても。オールジャパンのソフトボールのピッチャーも参考にした。取り入れられるものがあるから。私の土台は土浦一高で選手の時。終戦と同時に5年間野球をやっていて、3人の監督が来た。その監督がみんな違った。そのうちいいところだけ盗んで、合体したものからスタートした。3人集めればいい監督になる。

-監督の理論はどのようにつくられたか。

これは60年かかった。甲子園ではバントするより打っていった方が点が入るとは80歳になるまで知らなかった。1点欲しいからバントするんだと思っていた。テレビで言っていたが、80歳にもなって知りたくなかった。いまでも半信半疑。

もっとも甲子園は当てにならない。一流どころがそろうから。茨城なら送った方が入ると思う。場所によって野球は違う。

-甲子園で3度優勝したチームで共通していた部分は。

キャプテンがすごかった。監督がチームに2人いた。そのキャプテンなら俺は座っていればよかった。取手二高で勝った時は、こんなチーム、こんなキャプテンとは二度と巡り合えないだろうと思った。だから優勝はもうないと言っていた。そしたらまた、全然違う真面目なキャプテンで優勝でき、いろんな形で優勝ってあるんだと思った。だから勝ってみるまで分からない。

優勝しようと思ってやったのはダルビッシュに勝った時(2003年夏)だけ。辞める時たった1回、優勝を狙ってみようと県大会から考えていた。ほかの2回は「おまえたちすごくなったな」という話。「俺いなくてもおまえらだけで勝てるわ。俺黙っているから」なんて。

-甲子園で優勝したことで周囲の反応はどう変わったか。

甲子園に行ってうれしいことは、甲子園出場チームというと他県のベスト4以上のチームが練習試合を申し込んでくる。こっちが申し込みに行っても受けてくれる。後輩たちが恩恵を受ける。

勝てばプライドが出て、子どもたちはうんと立派になる。いい卒業土産になるのが甲子園だ。

-50年以上監督を続けられた理由は。

辞めてから思ったが全国優勝はあと2回くらいチャンスがあった。甲子園にいくのもあと5回余計にあった。でも、監督をやっている時は惰性になってしまう。キャプテンがしっかりしていないと、監督は「こいつらと“心中”してやる」という気持ちになれない。

それがある日突然、負けている試合を力合わせてひっくり返した途端にいいチームになる。だから惰性に陥らず、真剣勝負を常に(やらないといけない)。私ほど負けず嫌いな監督はそういない。

-事細かな采配のために練習で必要なことは。

普段はマイクで全部、「そこ違うだろ」ということをみんなに分かるように言っていた。そこでほかの選手が「怒られてるな」と見ているうちは駄目。監督の努力と選手のいい素材が合致すれば、やったことの分だけ結果は出る。勝ちたかったらそこまでやって、勝つ野球を生徒らに教えてほしい。そうすると試合で監督が腕組みしてても強いチームができる。ただ(今は)レベルが高くなったから、俺の時より勝つのがもっと大変になっている。


木内幸男(きうち・ゆきお) 1931年7月12日生まれ。土浦市出身。土浦一高卒。84年夏に取手二高を率いて県勢初の甲子園優勝。同年秋に常総学院高に移り、87年夏と94年春に準優勝、2001年春と03年夏には優勝に輝いた。03年の全国制覇後、病気療養を理由に一線を退いたが、07年に監督復帰。11年に勇退した。




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