【想いを紡ぐ 戦後78年】 (1) 《連載:想いを紡ぐ 戦後78年》(1) 水上特攻艇「震洋」に搭乗 根本栄さん(97) 茨城・高萩 体当たり、闇夜の覚悟 #戦争の記憶
1945年8月15日の終戦から78回目の夏を迎えた。茨城県内の戦争体験者などから、戦時中の思いや平和への願いを聞いた。
■「なぜ死なねば」葛藤も
同年の夏。当時19歳だった根本栄さん(97)=高萩市=は、名勝「三保の松原」で知られる静岡県清水市(現静岡市清水区)にいた。大量の爆薬を積んだ水上特攻艇「震洋」(通称マル四)に乗り込み、敵艦に体当たりする任務。青年は覚悟を決め、夜陰に紛れて船首を沖に向けた。
6人兄弟の長男。家は貧しく、旧制中学を3年で中退すると、家計を支えるため炭鉱労働者に。仕事後は、銃剣術や剣道の特訓に明け暮れた。
海軍飛行予科練習生(予科練)となったのは、17歳だった43年ごろ。当時は国のために命を投げ出すつもりはなかった。「生きて偉くなりたかっただけ」。立身出世を夢見た若者は、読み書きや算術、防空工学の訓練に打ち込んだ。
■明るく「大丈夫」
卒業まで残り半年になった頃、特攻隊員に選ばれた。急きょ予科練を卒業し、土浦海軍航空隊へ。志願したわけではなかった。
入隊前の休暇で帰省し、家族や友人、小学校の恩師に会いに行った。周囲には「大丈夫」と明るく振る舞ったが、内心は「なぜ死ななきゃいけないんだ」。命令を受け入れきれない苦しさが胸に渦巻いた。
翌朝の見送りで、父は黙ったまま。母は「身体を大事にしてね」と声を詰まらせた。2人の姿は80年たった今も忘れられない。
水上特攻の訓練所があった長崎県川棚町では、エンジンの始動法や敵艦へのぶつかり方の訓練が続いた。悲壮な表情で訓練する同僚の傍らで、「どこで海に飛び込めば助かるか。それだけを考えていた」。命を散らす考えは毛頭なかった。
訓練を終え、清水市にあった実戦部隊に転属。当時の楽しみは、弟や地元の小学校から届く慰問の手紙だった。生き残ることばかり考えていた青年の思いが変わったのはその頃だ。
「国がだめになっちまって、自分だけ生きていてもしょうがあんめえ」。特攻の目的は戦勝でも報国でもない。全ては家族のためと腹をくくった。
■決死の出撃不発
駐留地の近くで空襲があった夜、部隊長から出撃命令が下った。夜の闇に乗じて出撃したが、なぜか敵艦と擦れ違い、決死の出撃は不発に終わった。
その後は、出撃命令がないまま終戦。玉音放送を聞き終わると、「おめえらは特攻隊で最初に殺された(はずの)隊員だから早く帰れ」。部隊長の独断で解散が決まった。
敗戦を信じられず、仲間とやけ酒を飲んだが、翌朝に生き残った実感が湧いてきた。気力もよみがえる。「おいら、生きて帰れるんだ。もう一度家族と会えるんだ」
敗戦のどん底からはい上がり、玄孫(やしゃご)にも恵まれた。「人を殺し、殺される。戦争ほどばかなものはない。二度とやってはいけない」。かみしめるようにつぶやいた。
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