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【茨城、あの時】 (10) 《連載:あの時》(10) 虎塚壁画発見 1973年 赤い奇跡、地域の宝 保存と公開、難題実現 茨城・ひたちなか

虎塚古墳の石室に続く扉の前で当時を振り返る川崎純徳さん、鴨志田篤二さん(右から)=ひたちなか市中根
虎塚古墳の石室に続く扉の前で当時を振り返る川崎純徳さん、鴨志田篤二さん(右から)=ひたちなか市中根
円や三角など多彩な文様が色鮮やかに描かれた石室内の壁画(市教委提供)
円や三角など多彩な文様が色鮮やかに描かれた石室内の壁画(市教委提供)


虎塚古墳を囲み、市民ら200人が見守っていた。

茨城県勝田市(現ひたちなか市)市教育委員会の文化財担当、鴨志田篤二(75)は入庁1年目ながら、石室につながる扉石の前に立った。

1973年9月12日午前10時52分。市職員が数人がかりで重い扉石をゆっくりと開ける。1400年前と現代の空気が混じり合った。

見えたのは、薄暗い石室内の天井から垂れ下がった草木の根っこ。目を凝らすと、何本もの根の向こうに赤い幾何学文様が見え、思わず叫んだ。

「壁画だ!」

調査団長で明治大教授の大塚初重(故人)が石室内を確認。壁画発見を市民に伝えると、大きなどよめきと拍手が起こった。

虎塚古墳は市南東部の東中根台地の前方後円墳。7世紀初めに造られ、全長56・5メートル。扉を開けたのは市史編さん事業の一環で、後円部で見つかった横穴式石室を調べるためだった。

「壁画があるなんて誰も考えていなかった。感動した」。鴨志田は発見時の記憶は今も鮮明と話す。

調査団副団長で、水戸農業高の教員だった川崎純徳(86)にも吉報が届く。学校から駆け付け、壁画と向き合った。

「装飾古墳が見つかるのは大半が九州。鮮やかな赤色がしっかりと残っていることが奇跡だった」


石室内の壁は白く塗られた上に、真っ赤なベンガラ(酸化第二鉄)でさまざまな文様が描かれていた。円や三角、太刀、やり…。成人男性1体の骨や副葬品も見つかった。

彩色壁画の発見は全国ニュースとなる。1週間後に公開されると、多くの見学者が訪れた。同時に、将来へいかに保存するか、大きな課題となる。

大塚は鴨志田や川崎ら関係者に相談した上、明快に結論を出した。

「史跡は市民のもの」

閉鎖的になりがちな研究成果を多くの人に見てもらい、文化財保護への理解を深めてもらうためだった。

考古学だけでなく保存科学や建築学、地盤工学など幅広い専門家が集まり、保存対策委員会ができた。

相反する保存と公開。両立には温度や湿度など、石室内の環境を開口前と同様の状態に保てるよう、調査研究を重ねる。

4年後の77年、公開を前提とした保存基本方針を策定。80年、現在の公開保存施設を完成させた。

川崎は「いかに装飾の劣化や色落ちを防ぐか。史跡自体を保存する以上の難しさがあった」と振り返る。

「飛鳥美人」で知られ、虎塚壁画の前年に見つかった奈良県の高松塚古墳壁画(国宝)はその後、かびに侵された。虎塚壁画は発見から今年で50年。保存技術は高く評価される。

春と秋の一般公開が80年に始まると、これまでに延べ13万人近くが訪れた。今秋の残る公開は9~12日。「日本史上とても重要な史跡を直接、肌で感じてほしい」と鴨志田は話す。

古墳そばにある市埋蔵文化財調査センターの稲田健一(54)は80年の初公開時、小学5年生。彩色壁画に接し「心を揺さぶられた」。

虎塚の研究者になろうと決意。大学で考古学を専攻し、夢を実現させた。

「半世紀に及ぶ保存技術の蓄積があって、一般公開できている」。歴代関係者の努力に敬意を示す。気がかりは地球温暖化など気候変動。保存方法や改善策を常に追求する。

大塚ら先達の努力で生まれた地域の宝。「公開と保存の両立が使命」。あの時の感動を胸に後世へ引き継ぐ。(敬称略) 

■虎塚古墳

茨城県ひたちなか市中根の前方後円墳。1973年9月12日、石室から三角や環状などの彩色壁画が見つかった。74年に国史跡に指定



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