《茨城県内お宝拝見》大煙突の設計図・認可申請書 日鉱記念館 日立
■緻密、工都の原点
日立鉱山の閉山跡地に立つ茨城県日立市宮田町の日鉱記念館。「日立の大煙突」コーナーには、市のシンボルとして今も親しまれる大煙突の設計図と、建設認可申請書が並ぶ。
同館の篠原順一副館長(63)は「大煙突がなければ工業都市・日立が大きく発展することはなかったかもしれない。まちの原点を象徴する展示」と話す。
日立鉱山の大煙突は、銅の製錬による煙害を防ぐため1914年に完成した。当時では珍しい鉄筋コンクリート製で、高さ155.7メートルは世界一を誇った。
煙を低く狭い区域に封じ込めるという考えが当時の常識だったが、創業者の久原房之助は火山に着想を得て、大煙突を考案した。高層気流で煙を拡散させるという逆転の発想だった。
「賛否両論ある中、久原は気象観測や実験を重ねて合理性を裏付けて決断を下した」といい、完成後は被害が激減。大煙突は「地域の共存共栄」の象徴となった。
唯一残る設計図の「五百尺大煙突鉄筋組立之図」を書いたのは尾崎武洋。設計した宮長平作に代わって現場監督を務め、完成後に煙突頂上の作業床で昼寝したという逸話が残る人物だ。
和紙の図面は縦105センチ、横73.5センチ。緻密で美しい手書きの線や文字が印象的で、煙突を10ブロックに分けて厚みが変わっていく様子などが読み取れる。「建設にかけた情熱や丁寧な仕事ぶりが伝わる」と篠原副館長。
大煙突は93年に3分の1を残して倒壊し、折れた先は工場とは逆の山側に落ちた。「皆を守るため細工されていた」との説もある。
建設認可申請書は14年4月8日に当時の農商務省に提出された実際の資料だ。
常識に反した計画だったにもかかわらず、許可書が発行されたのは申請日のわずか6日後。事前の根回しがあったといい、篠原副館長は「久原本人の強力な説得によって同省も例外を認めることになった」と解説する。
建設の裏側にあった綿密な計画と、周到な準備。篠原副館長は「ベースにあるのは共存共栄の精神。信念に基づきステップを積み重ね、大事業を成し遂げた歴史から学ぶことは多い」と話す。
【メモ】館内では創業者の功績や、日立鉱山から現在のJX金属グループに至る資料などを展示。午前9時~午後4時。月曜、祝日、年末年始など休館。