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《連載:つなぐ 東日本大震災14年》(上) 避難所 学校と地域一体  日立・久慈中元校長、石川さん 茨城

街並みを背に「地域のつながりが大事」と話す石川善憲さん=日立市久慈町
街並みを背に「地域のつながりが大事」と話す石川善憲さん=日立市久慈町


東日本大震災から14年。あの日の記憶と教訓を、次世代へ、全国各地へと、届け続けている人を紹介する。


「あの震災を経験した自分の使命だと思う」

2011年3月11日の東日本大震災当時、茨城県日立市久慈町の市立久慈中の校長だった石川善憲さん(73)は今、消防庁が全国の自治体へ派遣する語り部として活動する。

避難所となった中学校で約2000人を受け入れた経験を、後世に伝えなければいけないという強い思いがある。当時の久慈中は「まさに、地域とともにある『コミュニティスクール』だった」と振り返る。

語り部活動を始めたのは約2年前。県内だけではなく、これまでに大阪や和歌山、三重、徳島、東京、神奈川、山梨、愛媛などにも足を運んできた。

学校のある久慈町は高さ4メートルの津波に襲われ、浸水被害は市内最多の272件に上った。震度6強の地震による被害も広がった。

震災は卒業式の2日後。在校生をグラウンドに避難させると、防災無線が「大津波警報」や「断水の恐れ」を伝えていた。

鍋やバケツ、傘立てなど「何でもいいから水をくんで体育館に運ぼう」と教員や生徒に指示を飛ばし、グラウンドには後に「対策本部」となるテントも設置。受け入れの準備が始まった。

「行政の支援が届くまでには時間がかかる。やれることをやろう」。当日、石川さんは「青空本部」で自治組織の代表や防災部のメンバーと確認し合ったという。

夜には地域の人たちが持ち寄った食材で炊き出しを行い、地元の建設業者が用意してくれた発電機で体育館には電気がともった。毛布が足りず、手分けして2台のリヤカーを引いて地域を回ると、善意の寄贈品で満杯になった。

学校に殺到した安否確認の問い合わせには教員が対応し、生徒や卒業生が体育館の避難者に拡声器で伝えた。自らも被災者だった子どもたちは「自分たちに任せてほしい」と言って、断水中のトイレの掃除や炊き出しの配膳などに駆け回った。

地域の人に交じって教員や生徒たちが動けた理由は「学校と地域が顔の見える関係だったから」と、石川さんは強調する。久慈中では伝統行事の「黒潮太鼓」や「久慈中ソーラン」が引き継がれ、これに地域住民も密に関わる。「日ごろからのつながりが、非常時に大きな力になった」

6年前、久慈学区コミュニティ推進会の会長に就き、再び地域防災の先頭に立っている。講演活動で各地を回って分かったのは、地域防災の担い手の高齢化という共通した課題だった。

久慈学区では今、地域防災の中心を担う女性リーダーを増やそうとしている。地域で民間資格の「防災士」を持つ住民は現在12人。うち女性は4人まで増えた。

大内美代子さん(61)もその一人。22年に同学区で女性として初めて資格を取得した。今後は防災訓練の企画などにも関わる予定で「弱い立場の人や目の届きにくいところにも配慮して活動していきたい」と話す。

1960年のチリ地震津波も経験している石川さん。大震災の時と共通しているのは、地域の人たちがともに助け合って乗り越えた光景だ。「防災の基本は、良いまちづくりから」。震災経験を踏まえた備えを、地域で実践しようとしている。



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