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【息を合わせて 潮来・全中競漕に向けて】 (上) 《連載:息を合わせて 潮来・全中競漕に向けて 茨城》(上) 浸透の歴史

県内外73チームが参加して行われた2024年の水郷潮来シティレガッタ=同年6月30日、潮来市の常陸利根川
県内外73チームが参加して行われた2024年の水郷潮来シティレガッタ=同年6月30日、潮来市の常陸利根川


茨城県潮来市の常陸利根川で7月25~27日、第45回全日本中学選手権競漕(きょうそう)大会が開かれる。市内でローイング(ボート)競技が市民スポーツとして愛され、浸透していった歴史や期待の選手たち、大会を支える地域の思いを紹介する。

■合宿聖地と医師の情熱

水郷潮来とローイングの縁は明治時代にさかのぼる。東京の大学の漕艇部は「利根遠漕(えんそう)」と称して合宿を敢行。荒川から江戸川、運河を経て利根川に入り、銚子へ。旅館が多い潮来は格好の中継地だった。川幅が広く流れが緩やかな環境もあり、戦後は実業団や日本代表の合宿が行われた。

そんな潮来に競技が根付いたのは、一人の医師の情熱がきっかけだった。県立潮来高の校医を務めた大久保清倫(きよのり)さん(1919~88年)は、旧制二高(現東北大)で競技に出合い、東京帝大医学部でも熱中した。52年に旧潮来町にあった父の医院を継ぐため帰郷した。

63年、国体誘致を視野に県漕艇協会が設立されると、大久保さんは理事に就任した。開催機運の醸成へ潮来高にボート部をつくろうと、東大からナックルフォア艇1隻を入手し寄贈した。


同好会から始まったボート部は66年に正式な部活動に。初の高校総体は最下位だったが、元五輪選手の指導で翌年、国体4位入賞を果たした。「体力がなくても上のレベルに行けるんだ」。当時の部員、峰松好子さん(74)は喜びを忘れない。町内では働く若者たちによる青年学級チームも結成されるなど、競技の裾野は広がった。

70年ごろから、競技者による水郷潮来レガッタや愛好家のためのシティレガッタ(現在は「水郷潮来シティレガッタ」に統合)が開始。74年茨城国体の開催が決まると町立艇庫が建てられた。大会後に県購入のボートが町に贈られ、ハード・ソフト両面で市民に浸透する下地が整った。

「ボートも練習器具も借りられる環境は大きい」。元同部顧問で元県立麻生高校長の久保隆さん(73)は指摘する。自身もかつての教え子たちとチームを組み、何度もシティレガッタに出場。「レガッタがあったから、市民から競技への理解が得られた。試合の緊張感や一体感は何度でも味わいたくなる」と語る。


若年層への浸透も進んだ。95年、町立潮来一中にボート部が誕生。2000年創立の日の出中にもボート部ができた。08年にスポーツ少年団も発足。国体出場経験があり、競技普及に携わった塙信一さん(78)は「競技とまちづくりを結び付けるため、子どもから大人まで親しめる環境が必要だった」と振り返る。

02年高校総体、19年茨城国体でもボートの数が増え、環境は充実した。

一方、県内高校には最盛期計8校にボート部があったが、現在は潮来高のみ。潮来市立中2校も合同チームでの出場だ。

全中競漕には競技人口増への期待がかかる。県ローイング協会理事長の根本政世士さん(62)は「立派な施設があっても、やる人がいなければ意味がない。競技が広く普及する契機になれば」と語った。



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