《いばらき戦後80年 証言》勝田・艦砲射撃 駒橋一俊さん 84 (茨城・水戸市) 対岸の村襲う流れ弾 畑に破片突き刺さる


「きれいだな。何だろう」
遠くの勝田町(現茨城県ひたちなか市)の夜空に、線香花火に似た光の筋が浮かび、チラチラ揺れながらゆっくりと落ちていく。那珂川を挟んだ対岸の上大野村吉沼地区(現同県水戸市)に住んでいた当時4歳の駒橋一俊さん(84)は、見慣れぬ光の筋が米艦隊による砲撃と理解するのに時間がかかった。
母、祖父と3人暮らし。自宅裏の防空壕(ごう)に家族と逃げた。広さ2畳ほどの湿っぽい空間にうずくまると「ドガン、ドガン」。耳をふさいでも破裂音は響いた。遠くで、近くで、幾重にも重なった。
1945年7月17日深夜。同県日立市や勝田町を狙った艦砲射撃の流れ弾が翌18日未明にかけて、村に降り注いだ。
サツマイモ畑が広がる穏やかな風景が一晩で変わった。畑には砲弾の破片が突き刺さっていた。手裏剣のような鋭い断面に息が止まった。「こんなの来たら一発だな」
自宅から北西約300メートルの畑に、すり鉢状の穴が開いていた。直径約10メートル、深さ約5メートル。家1軒をのみ込む深さだった。村人が亡くなったと聞いた。
「流れ弾の怖さだけは昨日のように思い出す」
米艦隊は勝田町にある二つの兵器工場を狙い、40センチ砲弾を368発撃ち込んだ。このうち狙いがそれた51発が村を襲った。村内の死者は21人に上り、全壊、半壊家屋が数軒出た。
終戦後は日立製作所・日立専修学校を経て、茨城大工学部を卒業。大手化学メーカーに就職した。父親はニューギニアで戦死。「早く(家計の)役に立ちたい」一心だった。水戸市遺族会や戦没者遺族相談員として活動したが、これまで表舞台で自身の体験を語ることはなかった。
「戦争を知らない世代に私が語れる最後の節目だ」。終戦から80年の今年、平和の尊さを伝える使命感が湧いてきた。
7月、近くの小学校に声をかけ、5~6年の児童らに語る機会を得た。
戦争の生々しさは断片的にしか話せない。ほかの体験者の作文など文献を読み重ねて言葉を紡いだ。「国民が政治と報道の手綱を引き締めれば、戦争は起きない。自分で考え、納得し、方向を決めることが大切だよ」と締めくくった。
求めがあれば、自作の資料を携えて伝えていきたいという気持ちは続く。次の世代につなぐ責任を感じている。
「国が間違いに走らないよう、かじを取る子どもたちに知ってほしい」
★上大野村への艦砲射撃
1945年7月17日、米艦隊は海上から日立市に砲弾を撃ち込んだ直後、勝田町の日立製作所水戸工場と日立兵器工場に368発の砲弾を放った。このうち的を外れた51発が那珂川の対岸にあった上大野村吉沼地区を襲い、村民21人が死亡した。19日付茨城新聞は1面で「日立市、水戸市附近に 不逞極まる艦砲射撃」の見出しで報じた。被害状況は記事文末で「日立市および水戸市東北方地区に若干の被害」と触れる程度だった。