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《いばらき戦後80年 証言》学徒勤労動員 仲沢春司さん 96 (潮来市) 海軍工場 友奪う空襲 焼夷弾が防空壕貫通

同期生たちが学徒動員の体験をつづった記念誌を手にする仲沢春司さん=潮来市辻
同期生たちが学徒動員の体験をつづった記念誌を手にする仲沢春司さん=潮来市辻
空襲後の神奈川県平塚市街=1945年9月(平塚市博物館提供、ひらつかデジタルアーカイブより)
空襲後の神奈川県平塚市街=1945年9月(平塚市博物館提供、ひらつかデジタルアーカイブより)


1カ月先のことは想像もしなかった。1945年7月16日深夜から17日未明にかけ、神奈川県平塚市は米軍のB29爆撃機130機超による空襲を受けた。死者360人以上。市内にあった海軍の火薬工場には茨城県の旧制県立麻生中(現麻生高)の生徒が勤労動員されており、1人が命を落とした。「もっと早く戦争が終わっていれば」。共に動員されていた仲沢春司さん(96)=同県潮来市辻=は今も悔しさを募らせる。

仲沢さんたち3年生104人は、同年1月に麻生町(現同県行方市)を出発。既に4、5年生は県内の軍需工場に動員されていた。「家族と別れるのは寂しかったが、お国のためにと勇んで郷里を後にした」。汽船で霞ケ浦を渡り土浦へ。列車に乗って平塚を目指した。

動員先の第2海軍火薬廠(しょう)で、生徒たちは複数の工場に分けられ配属。仲沢さんは綿と火薬を混ぜる作業に従事した。勤務は午前7時、午後3時、同9時からの3交代制。他校生や女子挺身(ていしん)隊と一緒の作業では、冗談を飛ばす生徒もいた。

休日は週1日。ある日、息抜きのために友人と海に向かうと、敵機の機銃掃射に遭った。「全員で畑に逃げて伏せた。それからは怖くて海に行かなくなった」。16歳の青春は命の危険と隣り合わせだった。

7月16日。工場から徒歩20分ほどの寮に戻ったのは午後9時ごろ。寝床に入って程なく、空襲警報のサイレンと爆発音で飛び起きた。市街地の空は真っ赤。寮にも数発の焼夷(しょうい)弾が落ちたが、どうにか消し止めた。敵機が去り一息ついたところに、工場で麻生中生が負傷し危篤になったとの知らせが届いた。

同期生らが編んだ戦後50年記念誌に、現場にいた友人が手記を寄せている。夜勤中だった、その生徒は防空壕(ごう)に避難したが、焼夷弾が天井を貫通。両脚を直撃したという。空襲の後に発見され救護所に運び込まれたが出血がひどく、17日未明に息を引き取った。

火葬までの間、仲沢さんらは交代で遺体に付き添った。ろうそくの火だけが照らす薄暗い安置所で、遺体の足が妙にねじれていたことを記憶している。

終戦に伴い動員は終了。仲沢さんたちは8月17日に平塚を出発した。同級生の死の1カ月後だった。「成績が良く、人望も厚かったのに…悔しい気持ちだけだった」。帰路、焼け野原の街を見て「二度と戦争をしてはならない」との思いを強くした。

卒業後は教員になり、中学校長を務めて退職した。現代を生きる子どもたちに対話の大切さを訴える。「争いをなくすためには相手を理解することが必要。話し合い、協力しあう平和な社会を築いてほしい」。心からの願いだ。

★学徒勤労動員

日中戦争から太平洋戦争にかけ、労働力不足を補うために行われた、学生・生徒の強制的な動員。軍需工場での勤務のほか、農作業支援などにも携わった。全国の犠牲者は原爆によるものを含めると1万人を超える。



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