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【31年目の奇跡 J1水戸誕生へ】 (1) 《連載:31年目の奇跡 J1水戸誕生へ》(1)「水戸にJクラブを」 練習場なく茨城県内を転々

J2昇格決定の連絡を受けて握手を交わす石山徹水戸ホーリーホック代表(左)=故人=と永井隆後援会長(右)。中央は本間幸司選手=1999年11月16日、水戸市大工町の球団事務所
J2昇格決定の連絡を受けて握手を交わす石山徹水戸ホーリーホック代表(左)=故人=と永井隆後援会長(右)。中央は本間幸司選手=1999年11月16日、水戸市大工町の球団事務所


サッカーJ2水戸ホーリーホックが、クラブ創設31年目で初のJ1昇格を決めた。J2参入から約四半世紀、昇降格を経験せず、経営難や被災などの苦難を乗り越え、一歩ずつチーム強化の土台をつくり上げてきた。クラブの規模としては「奇跡」とも言える偉業。悲願にたどり着いた市民クラブの歩みを追う。

水戸ホーリーホックの前身「FC水戸」が産声を上げたのはJリーグが開幕した翌年の1994年。茨城県立水戸商高サッカー部OBの故・石山徹さんらを中心に結成された。Jリーグ発足時の10クラブ「オリジナル10」の一つだった県内の鹿島を意識し、「(茨城県の)県庁所在地の水戸市にJクラブを」との願いが込められた。

転機は97年。当時アマチュアで国内屈指の強豪だったプリマハム土浦FCの廃部危機に乗じ、合併が決まった。11人による出資の末、「水戸ホーリーホック」が誕生。出資者の1人で、プリマハムを率いていた中野雄二さん(63)=流通経大監督=が初代監督に就任した。

ただ、選手たちがプレーする環境は整っておらず、毎年のように存続が危ぶまれた。選手は午前にガソリンスタンドや水産加工場など出資者が営む事業所などで働き、午後は土のグラウンドでボールを蹴った。固定された練習場はなく、同県大洗町や友部町(現笠間市)など県内を転々とした。

「強くしたいなら強化費を回してくれと石山さんに言っても、そんなものはないとはね返されていた」。中野さんは振り返る。旧JFLに初めて挑戦した同年は4勝26敗で16位と無残な結果に終わった。

GK選手だった本間幸司さん(現クラブCRO)もその環境に驚いた。99年にJ1浦和から水戸に移籍してきたが、練習後のシャワーも、着替える場所もなかった。「月2万円のアパートに何人かで住んだりもした」と当時を回想する。それでも、「練習後のおにぎりなど、支援してくれる人たち全員に感謝の気持ちがあったし、全員が情熱を持ってプレーしていた」。Jリーグでプレーする将来が唯一のモチベーションだった。

FC水戸誕生から6年。勝てばJ2参入が決まる試合で、2-0の快勝。同県ひたちなか市陸上競技場で当時満員の2500人が詰めかけた大一番を制し、Jリーグの舞台に足を踏み入れることが決まった。

発足当時、鹿島はまるで雲の上の存在だった。その背中に追い付き、来季はJ1で初の「茨城ダービー」が実施される。「Jリーグの横綱と組み合える土俵に上がれたのは素晴らしい出来事。まだまだ前頭十数枚目の存在だろうが、早くその一番が見たい」。中野さんは感慨深そうに語った。



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