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《連載:あの時私は 戦後80年20紙企画》(10) 1945年5月29日 神奈川・横浜 増田成之さん(99)

横浜大空襲で見た光景を描いた絵を前に「後の世代にあの戦争を伝えたい」と語る増田成之さん=4月15日、横浜市戸塚区(木田亜紀彦撮影)
横浜大空襲で見た光景を描いた絵を前に「後の世代にあの戦争を伝えたい」と語る増田成之さん=4月15日、横浜市戸塚区(木田亜紀彦撮影)
空襲後の戸部駅周辺の様子(横浜都市発展記念館所蔵)
空襲後の戸部駅周辺の様子(横浜都市発展記念館所蔵)
増田成之さんの自宅
増田成之さんの自宅


■無数の遺体 気留めず 絵筆握り空襲伝える

神奈川県庁本庁舎、横浜税関、横浜市開港記念会館の「横浜三塔」に迫る猛火。その背後で、黒煙が巨大な壁のように立ち上る-。

増田成之さん(99)=同市戸塚区=がキャンバスに描いたのは、横浜大空襲で見た光景だ。

1945年5月29日。父の経営する同市鶴見区の鉄工所で後片付けをしていた。空襲警報が鳴った。しばらくして、B29の大編隊が襲来し、自宅のある同市西区の空に黒煙が上がった。「煙が墨のように空を染め、夕方のように真っ暗だった」

擦れ違う人たちは一様にすすで汚れ、性別が分からない。自宅は全焼し、全てが灰になっていた。幸い、家族は近くの小学校に避難し、無事だった。

見慣れた街に、目を疑う光景が広がっていた。待避壕(ごう)の中で絶命した女性と子ども、子どもを背負ったまま側溝に転落し、空に手足を伸ばしたまま黒焦げになった女性、噴水に浮かぶ女性…。無数の遺体が転がっていた。だが、誰も気に留める様子はなかった。

「玉音放送」は鉄工所の焼け跡で聞いた。「満州事変に太平洋戦争。少年時代はずっと戦争だったから、本当にほっとした」

近くの家からピアノの音が聞こえた。喜びの音色に思えた。

戦後、空襲体験を語ることはなかった。だが、偶然鑑賞した絵画展が考えを変えた。

2005年。東京駅構内のギャラリーで開かれていた戦没画学生慰霊美術館「無言館」(長野県上田市)の巡回展に立ち寄った。学業半ばで戦地に駆り出され、命を落とした画学生の遺作に言葉を失った。「自分にも何かできることはないかと思った」

幼い頃、自身も絵描きに憧れた。「自分には絵を描く以外、能力はない。それに絵ならば、後の世代に戦争を伝えられる」

絵筆を握った。あの日の風景が脳裏をよぎった。横浜大空襲をテーマに、これまでに15作品ほど仕上げた。

戦争は「人の死が日常と化し、命の価値が軽くなるもの」だ。

「戦争はもう嫌ですね」
増田さんはそうつぶやき、続ける。

「主張が違う人同士、互いに認め合うこと。知らない人でも、困っていたら助け合うこと。同じ過ちを繰り返さないために、それが大切だと思う」
(神奈川新聞・井口孝夫)

★横浜大空襲

1945年5月29日午前9時20分ごろ、米軍のB29爆撃機の編隊517機がP51戦闘機101機に護衛されて横浜上空に飛来。横浜市史資料室によると、約1時間にわたり、43万8000個余り(2569トン)の焼夷(しょうい)弾を投下した。横浜市中、南、西、神奈川区を中心に約31万人が被災。死者は直後の公式発表で3650人とされたが、8000人近いとの専門家の試算もある。



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