次の記事:TX土浦延伸 27年後黒字 茨城県試算 東京一体整備で 

【あの時私は 戦後80年20紙企画】 (1) 《連載:あの時私は 戦後80年20紙企画》(1) 1945年1月1日 沖縄・伊江島 太田康子さん(98)

戦禍をくぐり抜け、「今が一番幸せ」と語る太田康子さん。仏壇には広島で被爆した夫守福さん(享年91)の遺影が立てられていた=2024年12月8日、沖縄市宮里の自宅(竹花徹朗撮影)
戦禍をくぐり抜け、「今が一番幸せ」と語る太田康子さん。仏壇には広島で被爆した夫守福さん(享年91)の遺影が立てられていた=2024年12月8日、沖縄市宮里の自宅(竹花徹朗撮影)
伊豆味尋常高等小学校時代の太田康子さん(前列中央)。正月は学校で紅白まんじゅうが配られる新年行事があった=1937~38年ごろ、現在の沖縄県本部町(太田さん提供)
伊豆味尋常高等小学校時代の太田康子さん(前列中央)。正月は学校で紅白まんじゅうが配られる新年行事があった=1937~38年ごろ、現在の沖縄県本部町(太田さん提供)


■米軍機、悠然と旋回 「最後の正月」死予感

戦争体験者の声を直接聞く機会が失われつつある。戦後80年の節目に、茨城新聞社など全国の20新聞社は、各地の体験者の証言を取材して記事を共有し、1945年の「あの時」を伝える。第1回目は、日本軍と連合国軍の地上戦が迫る沖縄県内での女性の体験を紹介する。

1945年元日の朝、太田康子さん(98)は沖縄島北部の沖合に浮かぶ伊江島で、不気味に旋回する米軍機を見上げた。「空襲が来る」。これまでの〝経験則〟が、偵察の次は空襲だと教えていた。とっさにアダンの木陰に身を隠した。

当時、伊江島では日本軍が「東洋一の飛行場」を建設していた。19歳だった太田さんは、前年の12月22日から徴用で駆り出された。

携わったのは、米軍上陸後の車両侵入を阻むための溝掘り。「文句も言わず作業したが、米軍は万能でどこからでも突入してくる。あんなの掘っても何にもならんよ」と今にして思う。

1日の食事は虫に食われた小芋が2、3個のことも。長時間の肉体労働に見合うはずもなく、常に腹をすかせた。大きな墓が「兵舎」とされ、中で寝泊まりした。

「正月くらいは家で過ごしなさい」。大みそか、現場監督の日本兵の一言で、島から船で1時間ほどの本部町の実家に帰れることになった。

それでもうれしさより、むなしさの方が大きかった。「『これが死ぬ前の最後の正月になるから、せめて家族と一緒に』という哀れみだろう」と感じたからだ。元旦、荷物をまとめ向かった港で、偵察の米軍機が悠然と飛び去るのを見送った。

開戦前まで、正月は心が躍る時期だった。小学校時代の新年行事では、めったに食べられない紅白まんじゅうが配られたが、もはやそんな時勢ではなかった。

翌2日付の県紙「沖縄新報」は偵察の米軍B29が1発も爆弾を落とさずに去ったと伝えた。記事には「県民は緊張のうちに決戦の新年を(迎えた)」とある。

一般住民を巻き込むすさまじい地上戦が3カ月足らずのうちに迫っていた。圧倒的な物量で迫る米軍に対抗しようと、日本軍は根こそぎ動員で県民を戦力化。太田さんは兄やおいら6人を失い、家を焼かれた。

多くの同郷の若者たちも命を奪われた。「私より背丈が小さい男子まで戦争に行かされた。140センチ余りだったかね。弾よけにもならなかったはずよ」と嘆く。

戦後80年となる年が明けた。子5人、孫9人、ひ孫7人に恵まれ「今が一番幸せ」とうなずく。家族一緒の和やかな正月は、これからもずっと続くだろうか。(沖縄タイムス・新垣綾子)(随時掲載)

★沖縄新報
国による一県一紙の方針で、1940年に「沖縄朝日新聞」「沖縄日報」「琉球新報」の3紙を統合して創刊。政府や軍部と一体化し、戦意高揚に加担した。沖縄戦中も首里城近くの壕(ごう)などで制作され、学徒らが各壕に配布。45年5月25日に解散した。

【参加新聞社】茨城新聞、岩手日報、秋田魁新報、福島民報、下野新聞、上毛新聞、神奈川新聞、新潟日報、山梨日日新聞、信濃毎日新聞、岐阜新聞、京都新聞、徳島新聞、愛媛新聞、高知新聞、佐賀新聞、長崎新聞、大分合同新聞、沖縄タイムス、八重山毎日新聞



茨城の求人情報

全国・世界のニュース