《連載:あの時私は 戦後80年20紙企画》(11) 1945年6月 沖縄・那覇 照屋苗子さん(89)



■家族の肉片浴び気絶 悲嘆抱え「地獄」語る
日本軍に避難場所を追い出され、米軍の弾雨にさらされた。照屋苗子さん(89)=沖縄県那覇市=は9歳で沖縄戦の戦場を2カ月間さまよった。実家にほど近い首里城の地下には日本軍が総司令部を構えていた。一家8人は、近所の大きなガマ(洞窟)に隠れていた。
「ここで米軍を食い止める。南部に行きなさい」。日本兵が現れ、告げた。1945年4月、上陸した米軍が迫っていた。一家はあてもなく沖縄島南部へ向かった。
父は防衛召集されて不在。母やきょうだいとはぐれないように、照屋さんは必死で付いていった。
道端に横たわる日本兵の姿が脳裏に焼き付いている。ももから下をひどく負傷していて、目がぎょろぎょろと動き、こちらを見ていた。「助けを求めていると分かったが、かわいそうとも思わなかった。感情を奪われていた。あんなふうには死にたくない、即死できますように、と願うだけ」
祖母、姉、弟の3人は、即死だった。南部の現糸満市のガマにいた6月14日、米軍に迫撃砲弾を撃ち込まれた。3人の肉片や血が飛び散り、照屋さんの膝にもべったりと付着した。
気を失い、母に起こされ、肉片を取り除いてもらった。母も限界だった。「死ぬなら生まれ育った土地で死のう」。実家に向けて出発した。米軍の捕虜になったのはおそらく6月下旬のこと。23日は後年、日本軍司令官が自決し、組織的戦闘が終わったとされる「慰霊の日」になるが、戦場で意識することはなかったし、日付の感覚もなかった。
家族計5人を失い、沖縄県遺族連合会の会長も務めた照屋さんは、悲嘆を抱えながら「戦場の地獄」を語り残そうとしてきた。様変わりした現代の風景の中、「あなたたちには分かってもらえないかもしれないけど」という言葉がよく口を突く。
天皇陛下の沖縄訪問時、通算3回目の面会で初めて戦場で見たことを具体的に伝えた。「私もこの年齢。今回が最後かもしれない」と思ったから。途中で涙が止まらなくなった。
面会後、同行記者団に囲まれた。質問を受けて体験を語り始めたのに、東京から来た記者に「時間がないので」と遮られた。記者団は慌ただしく立ち去った。照屋さんは「もういい? 分かった…」とうつむいた。(沖縄タイムス・阿部岳、滝口信之)
★沖縄戦
国内で唯一、住民を巻き込んだ地上戦。日本軍は本土防衛の時間稼ぎのため、沖縄を捨て石として出血持久戦を展開。沖縄県によると死者は県出身者12万2228人、県外出身日本軍人6万5908人、米軍人1万2520人。
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