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【あの時私は 戦後80年20紙企画】 (6) 《連載:あの時私は 戦後80年20紙企画》(6) 1945年3月28日 沖縄・渡嘉敷島 大城静子さん(91)

家族でよく遊びに来る公園で沖縄戦について語り合う大城静子さん(左)と孫の侑生さん。晴れている時は海の向こうに渡嘉敷島が見えるという=3月13日、沖縄県糸満市・南浜公園(竹花徹朗撮影)
家族でよく遊びに来る公園で沖縄戦について語り合う大城静子さん(左)と孫の侑生さん。晴れている時は海の向こうに渡嘉敷島が見えるという=3月13日、沖縄県糸満市・南浜公園(竹花徹朗撮影)
沖縄県・渡嘉敷島の「集団自決跡地」。後方の谷間で80年前、住民らが「集団自決」に追い込まれた=2020年3月、渡嘉敷村
沖縄県・渡嘉敷島の「集団自決跡地」。後方の谷間で80年前、住民らが「集団自決」に追い込まれた=2020年3月、渡嘉敷村
大城静子さんがいた場所
大城静子さんがいた場所


■必死に「死んだまね」 集団自決、生き延びる

「触ってごらん。たたかれたから首の付け根がへこんでいるさ」。促されるまま首の後ろに触れると、わずかにくぼんでいた。

体だけではない。80年前の惨劇は心もえぐり、忘れたくても忘れられない。11歳だった大城静子さん(91)=沖縄県糸満市=は、沖縄島の西に広がる慶良間諸島の一つ、渡嘉敷島で起きた住民の「集団自決(強制集団死)」を生き延びた。

沖縄戦を前に、慶良間の島々で海上特攻の秘密基地を築いた日本軍。住民に対し「米軍の捕虜になれば男は戦車でひき殺され、女は強姦(ごうかん)される」と刷り込んだ上で手りゅう弾を渡し、敵に投降するより死を選ぶよう追い込んだ。

1945年3月27日、米軍が渡嘉敷島に上陸。日本軍は、村の兵事主任や巡査を通じて島北部、北山(にしやま)の陣地近くに移動命令を出した。呼びかけを受け、大城さんも祖母や母、きょうだいらと山中の広場へ。28日未明、住民100人ほどの輪に加わった時はまだ、「兵隊さんと一緒だから助かる」としか思わなかった。

何がきっかけになったのかは分からない。あちこちで「天皇陛下万歳」の叫び声が響く中、住民たちに配られていた手りゅう弾が次々と火を噴いた。だが、大城さん一家のそれは不発。混乱した母は、弾から火薬を抜き出し「食べなさい」と口に押し込んできた。まずくて、すぐに吐き出した。

地獄は続く。死にきれなかった人たちは、米軍に殺されるよりは、と愛する家族を鎌やカミソリで切り付けた。親戚の男性に木の棒で繰り返し殴打された母は、やがて絶命。地面に伏せていた大城さんも、首の後方を2回殴られた。「動いたら殺されると思って、死んだまねをした」

数時間がたっただろうか。気付くと、米兵に捕らわれていた。辺りには血まみれになった多数の遺体。祖母や生後数カ月だった末の妹も息絶えていた。「助けられなくてごめんね」。自責の念と共に、少女はそれから80年を生きてきた。

苦しくて、しんどくて、封印したはずの記憶だった。「でも話しておかんとね。戦争のこと、誰も分からなくなるからね」。数年前から、あの日の出来事を少しずつ周囲に語り始めた。孫で中学1年の侑生さん(13)は「どれだけ怖くて、悲しかったんだろう。おばあの体験、ずっと忘れないよ」と、祖母の手をぎゅっと握った。(沖縄タイムス・當銘悠)

★慶良間諸島の「集団自決」

米軍は1945年3月23日からの空襲や艦砲射撃に続き、26日に座間味、27日に渡嘉敷など慶良間諸島へ上陸。追い込まれた住民が、日本軍の強制や誘導で家族や親戚を手にかけた。渡嘉敷島330人、座間味島177人、慶留間島53人が「集団自決」で亡くなった。



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