【あの時私は 戦後80年20紙企画】 (6) 《連載:あの時私は 戦後80年20紙企画》(6) 1945年3月28日 沖縄・渡嘉敷島 大城静子さん(91)



■必死に「死んだまね」 集団自決、生き延びる
「触ってごらん。たたかれたから首の付け根がへこんでいるさ」。促されるまま首の後ろに触れると、わずかにくぼんでいた。
体だけではない。80年前の惨劇は心もえぐり、忘れたくても忘れられない。11歳だった大城静子さん(91)=沖縄県糸満市=は、沖縄島の西に広がる慶良間諸島の一つ、渡嘉敷島で起きた住民の「集団自決(強制集団死)」を生き延びた。
沖縄戦を前に、慶良間の島々で海上特攻の秘密基地を築いた日本軍。住民に対し「米軍の捕虜になれば男は戦車でひき殺され、女は強姦(ごうかん)される」と刷り込んだ上で手りゅう弾を渡し、敵に投降するより死を選ぶよう追い込んだ。
1945年3月27日、米軍が渡嘉敷島に上陸。日本軍は、村の兵事主任や巡査を通じて島北部、北山(にしやま)の陣地近くに移動命令を出した。呼びかけを受け、大城さんも祖母や母、きょうだいらと山中の広場へ。28日未明、住民100人ほどの輪に加わった時はまだ、「兵隊さんと一緒だから助かる」としか思わなかった。
何がきっかけになったのかは分からない。あちこちで「天皇陛下万歳」の叫び声が響く中、住民たちに配られていた手りゅう弾が次々と火を噴いた。だが、大城さん一家のそれは不発。混乱した母は、弾から火薬を抜き出し「食べなさい」と口に押し込んできた。まずくて、すぐに吐き出した。
地獄は続く。死にきれなかった人たちは、米軍に殺されるよりは、と愛する家族を鎌やカミソリで切り付けた。親戚の男性に木の棒で繰り返し殴打された母は、やがて絶命。地面に伏せていた大城さんも、首の後方を2回殴られた。「動いたら殺されると思って、死んだまねをした」
数時間がたっただろうか。気付くと、米兵に捕らわれていた。辺りには血まみれになった多数の遺体。祖母や生後数カ月だった末の妹も息絶えていた。「助けられなくてごめんね」。自責の念と共に、少女はそれから80年を生きてきた。
苦しくて、しんどくて、封印したはずの記憶だった。「でも話しておかんとね。戦争のこと、誰も分からなくなるからね」。数年前から、あの日の出来事を少しずつ周囲に語り始めた。孫で中学1年の侑生さん(13)は「どれだけ怖くて、悲しかったんだろう。おばあの体験、ずっと忘れないよ」と、祖母の手をぎゅっと握った。(沖縄タイムス・當銘悠)
★慶良間諸島の「集団自決」
米軍は1945年3月23日からの空襲や艦砲射撃に続き、26日に座間味、27日に渡嘉敷など慶良間諸島へ上陸。追い込まれた住民が、日本軍の強制や誘導で家族や親戚を手にかけた。渡嘉敷島330人、座間味島177人、慶留間島53人が「集団自決」で亡くなった。
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